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ドラマ『ひとつ屋根の下』第1話「苦い再会」でのあんちゃんの興味深いセリフ。

 1993年4月12日に放映された『ひとつ屋根の下』第1話「苦い再会」の12分前後に、俳優の江口洋介が演じる「あんちゃん」こと柏木達也の興味深いセリフがある。婚約者と婚約者の両親を前にしてのあんちゃんの発言である。

あんちゃん:
「おとうさん、おかあさん。僕は、僕は何の取り柄もありません。学歴も、貯金も担保も、たかが知れています。いや、その、ようするに、幼稚園なんです」
婚約者の父:「幼稚園?」
あんちゃん:
「はい。幼稚園で習ったことだけを、ずっと守ろうと思って生きてきました。その、なんていうんですか、人を傷つけてはいけません。人の物を盗ってはいけません。女の子に暴力を振るってはいけません。物を大切にしましょう。思いやりを持ちましょう。外から帰ったらうがいをして、食べたら手を洗う。なんていうんですかね、あの、うまく言えないんですけども」
婚約者の父:
「うん、うん、うん、うん、わかるよ」
婚約者の母:「いいことだわ」
婚約者の父:
「そうか、うん、幼稚園で学んだことが全てか」
あんちゃん:「お嬢様を、必ず幸せにします」

というセリフだ。

リートン作:お嬢様を、必ず幸せにします

 あんちゃんが幼稚園で学んだことと主張することのうち、「外から帰ったらうがいをして、食べたら手を洗う」というのは公衆衛生の基本で、①「人を傷つけてはいけません」、②「人の物を盗ってはいけません」、③「女の子に暴力を振るってはいけません」、④「物を大切にしましょう」、⑤「思いやりを持ちましょう」の五つは、人間が守るべき基本的な倫理規定のことである。

 ①「人を傷つけてはいけません」、②「人の物を盗ってはいけません」、③「女の子に暴力を振るってはいけません」は、思いやりを持っていなければできないことであり、④「物を大切にしましょう」を物に対する思いやりと考えれば、幼稚園で習う人間が守るべき基本的な倫理規定は、⑤「思いやりを持ちましょう」に一括できる。

 この幼稚園で習う「思いやりを持ちましょう」という人間が守るべき基本的な倫理規定を、警察官は守れないのだ。

 奇異に聞こえるかもしれないが、不祥事をおこした警察官ばかりでなく、上司の命令一下躊躇なく行動できる警察官全てが「幼稚園」で学んだことを省みることができないのである。

 警察官の仕事は、容疑者の逮捕、証拠品の押収、所持品検査(身体検査も含)、容疑者の同意のない写真撮影、張込みや物陰に隠れての取り締まりなどである。

 もし、警察官が職務の際に「人を傷つけない」「女の子に暴力を振るわない」「人の物を盗らない」「物を大切にする」「思いやりを持つ」などと主張したらどうなるだろうか。

 逮捕の際に「人を傷つけない」といって容疑者を制圧しない。「人の物を盗らない」といって証拠品を押収しない。浅間山荘事件など立てこもり事件での突入の際に「物を大切にする」といって扉を破壊しない。覗かれるのは嫌だろうからと「思いやりを持つ」といって張込みはしない。などと警察官が主張したりしたら、警察官の仕事は、まったく成り立たなくなってしまう。

 道徳はとりあえず横において、警察官たちは、上司の命令一下、一糸乱れず行動しなければ、仕事にならないのである。

 特に市民相手の警備活動では、「人を傷つけない」「女の子に暴力を振るわない」「思いやりを持つ」などといっていては、まったく仕事にならない。

 警備実施の際に「思いやり」などあってはならないのだ。

 警察官の仕事は「思いやり」を持っていては仕事にならないという特徴があるのである。

 この特徴を明示する出来事に誤認逮捕事件がある。誤認逮捕事件は、警察官の仕事、つまり警察における「職務倫理」に従った行為が、人間が守るべき基本的な倫理規定と一致しないことを明示している。

 誤認逮捕の場合、合法的な逮捕の際にはまったく問題にならない通常業務としての警察官の行為が、ことごとく、違法な行為になってしまうのである。

 このことは、警察官が職務以外で、警察官の仕事と同様の行為をすれば、違法な行為になるということを示している。

 つまり、警察官が日常業務として行なっている行為は、TPO(時・場所・場合)によって、犯罪行為になるのである。

 警察官の仕事は、人間が守るべき基本的な倫理規定と一致しないばかりか、その行動のみに着目すると、犯罪行為と変わりないのだ。

リートン作:誤認逮捕される教授

 2000年4月24日の「O教授誤認逮捕事件」は、警察官の仕事が、その行動のみに着目すると、犯罪行為と変わりないということを示す好事例である。

 「O教授誤認逮捕事件」というのは、2000年4月20日に発生した横浜市保土ヶ谷区のクリーニング店従業員の長男が下校途中に誘拐された事件の捜査の際に兵庫県警が起こした誤認逮捕事件のことである。

 2000年4月24日、兵庫県警察本部刑事部機動捜査隊の警察官と西宮警察署の警察官は、事件とまったく無関係のK大学のO教授を誤って逮捕するというとんでもない間違いを犯したのである。

 この兵庫県警による誤認逮捕に対する国家賠償請求訴訟では、兵庫県警の警察官たちの公権力の行使(逮捕行為、所持品検査、意思に反する連行、返答の強制、同意なき携帯電話のチェック、同意なき写真撮影)の違法性の有無が争われ、O教授が勝訴している。

 判決では、逮捕行為→違法、所持品検査→検証にあたり違法、意思に反する連行→違法、返答の強制→違法、同意なき携帯電話のチェック→検証にあたり違法、同意なき写真撮影→違法という結果である。

 「O教授誤認逮捕事件」で違法な公権力の行使と認定された行為と同様の行為を一般市民がすれば犯罪行為になる。

 逮捕行為、所持品検査、意思に反する連行、返答の強制、同意なき携帯電話のチェック、同意なき写真撮影を犯罪行為と対応させてみると、逮捕は「暴行」、所持品検査は一般的に身体検査を含むことから「痴漢」、意思に反する連行は「拉致」、返答の強制は「いたずら電話などの迷惑行為」、同意なき写真撮影は「盗撮」ということになる。

 このことは、警察官が間違えた仕事をすると違法な公権力の行使になるが、警察官が仕事以外で警察官の仕事と同様の行為をすれば、一般市民と同様に犯罪行為になるということを示している。

 このほかにも警察官の仕事には、張込みがある。刑事ばかりでなく、地域課の交番勤務の警察官も自転車窃盗犯逮捕のために張り込んだりする。
 交通課などでは、いったん停止や速度違反検挙のために物陰に隠れて取り締まりをする。これも張込みと同様の行為である。

 誤認逮捕の事例と同様に考えれば、張り込みや取り締まりという警察官の通常業務も、まったく無関係な市民に対して行えば「覗き」ということになる。

 同様に考えると、証拠音声の録音は「盗聴」、尾行は「ストーカー行為」、保護は逮捕と同様に「暴行」「傷害」「殺人」「拉致」「監禁」などということになる。

 このようにTPO(時・場所・場合)によっては、張り込み(覗き)、証拠写真・動画の撮影(盗撮)、証拠音声の録音(盗聴)、尾行(ストーカー)、所持品検査(痴漢)、逮捕・保護(暴行・傷害・殺人・拉致など)などの何でもない警察官の日常業務が、犯罪行為になってしまうのである。

 まだこの他にも、警察官の仕事には、留置管理業務と呼ばれている仕事がある。留置管理業務は、留置場のトイレまで監視することから、張り込みや取り締まりより、より純粋に「覗き」に近いといえる。

 また、留置管理業務における留置人に対する身体検査は、所持品検査より「痴漢」に近い。

 さらに言えば、警備公安警察における警備対象者に対する情報収集、写真や動画の撮影、通信傍受、張り込み、尾行などは、警備対象者を誤認した場合は、文字通り「盗撮」「盗聴」「覗き」「ストーカー行為」である。

 恐ろしいことに、警備公安警察に警備対象者にされていることは、情報漏洩でもない限り、明らかにならない。

 警備公安警察における警備対象者の誤認の被害者は、誤認されていることを知ることすらできず、なす術もなく被害を受け続けることになる。

 このように、警察官が日常業務として行っている行為は、ちょっとTPOを間違えただけで、犯罪行為となり、警察官の不祥事になってしまうのである。

 このことは、不祥事を起こした警察官たちが、特殊な行為をしたのではなく、TPOを間違えて日常業務として行っている警察官の仕事と同様の行為をしただけであることを示している。

 警察官の仕事は、サービス的な仕事、言い換えれば、CI活動以外は、犯罪者を捕まえたり、犯罪を犯しそうな人間を見張ったりすることである。

 これらの警察官の仕事は、相手の意思に反することをすること、考える暇も与えない場合は、意志に反することをすることといえる。

 一般的に人間は、意思や意志に反することをされると苦痛を感じることから、警察官の仕事は人間に苦痛を与えることであると言っても過言ではないだろう。

 相手の人間が善人であれ悪人であれ、人間に苦痛を与えることは、幼稚園で「思いやりを持ちましょう」と学んで、「思いやり」を持とうと心がけて生きてきた人間には、なかなかできることではない。

 たとえ上司の命令でも躊躇してしまうに違いない。

 人間に倫理観や思想信条を省みることなく行動することを完全に習慣づけることができれば別だが、機械にでもならない限り、相当なトレーニングをしても、躊躇なく他人に苦痛を与えることができるようにはなれないだろう。

 もし、なんの躊躇もなく警察官の仕事ができている人間がいるのだとすれば、その人間は「思いやり」を持つことができないという点で、幼稚園で学んだ道徳的な基礎を持たない幼稚園未満の人間というよりない。

 漱石が批判した探偵化(警察化)は、警察教養によって警察官に注入された職務倫理が、警察官を模倣中心とした社会教化運動によって、社会の倫理になることを批判したと考えればよいだろう。

 ここでいう「教養」や「教化」は、現在、北朝鮮や中国で使われている意味での「教養」や「教化」である。

 ちょっと考えればだれでもわかることだが、ブラック企業の企業倫理は警察の職務倫理と同じである。ブラック企業は警察のマネをしていると考えればよいだろう。そう考えると、漱石はブラック企業の誕生も予言していたということになるだろう。

 漱石的に言えば、道義的同情が道徳の根拠で、警察の職務倫理は、道徳とは無縁だということだ。

 昨今、道義国家などというヒトがいるが、あれは字面の似た「忠恕」の「忠」に基礎をおいた犬党の暗示のためのスローガンである。国家や政党などに忠なヒトをつくろうとしてスローガンを鼓吹しているヒトは、ミンナ犬党だ。

 猫党の道徳の基礎が何かは、

をご参照願いたい。

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