『源氏物語』12帖「須磨」に書いてある光源氏の須磨の邸宅の位置について
『源氏物語』12帖「須磨」に書いてあることなどから、光源氏さんの須磨のお宅がどこにあったかを、推理してみた。
『源氏物語』の原文と現代語訳は「A Cup of Coffee」というサイトによった。
光源氏の閑居のモデルの在原行平関連の事項からわかること。
という部分から、①「山中」である。海から少し離れているが②海岸に打ち寄せる波の音が聞こえる
ことがわかる。
光源氏さんのお宅からの景色からわかること。
などという部分から、③廊下に出れば海が見え、④家の前を通る舟から舟唄や漕ぐ音が聞こえる。⑤船には光源氏の奏でる琴の音が風に乗って聞こえることがわかる。
また、
という部分から、後ろの山で柴を燃やす煙を藻塩を焼く煙と間違えるくらい⑥海岸と山が近いことがわかる。
光源氏さんのお宅のご近所の様子からわかること。
「昔こそ人の住みかなどもありけれ」ということから、現在(光源氏の邸宅があった時)はご近所に住んでいる人は少ないと思われる。ここでいう昔は、在原行平が須磨にいた時期を指すと思われる。
なぜ、人がいなくなったかを考えてみると、まず、地震と津波が考えられる。
日本地震学会のサイトに
とあることから、「昔こそ人の住みかなどもありけれ、今は、いと里離れ心すごくて、海人の家だにまれに」という状況になったと思われる。
ほかの自然災害や疫病なども考えられなくもないが、防波堤もない時代に津波で「海潮陸に漲(みなぎ)り」という状況では、たとえ、潮を被った土地の塩害の自然回復に必要な期間が2~3年と思ったより短かったとしても
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kaigan/71/2/71_I_1663/_pdf
、河川(神戸の市街地の河川は六甲山から一気に流れ落ちるため急流が多く短時間の降雨で水害が発生しやすいらしい)に橋もなく湿地が広がる状況であったなら、しばらく定住しようと思う人が現れないことは、容易に想像できるだろう。
津波を逃れて『源氏物語』のころに須磨に住んでいた人々は、津波や高潮にさらわれる恐れの少ない、ある程度の高台に住んでいたと思われる。
『源氏物語』「須磨」にも、陰陽師を呼んで、祓いをさせたところ、突然嵐が起こり、高潮が発生したとある。
この12帖「須磨」の嵐は、13帖「明石」でも語られており、
と、光源氏さんたちは危うく高潮にさらわれるところであったらしい。
波にさらわれるほどの高潮があったが、大急ぎで家へ帰って難を逃れたと書いてあることから、光源氏さんのお宅は、⑦ギリギリ高潮が及ばない高さにあることになる。
『源氏物語』の「明石」では「この風、今しばし止まざらましかば、潮上りて残る所なからまし。神の助けおろかならざりけり」と海人が言ったとあるが、「もう少しひどければ、最悪の事態だった」という表現は、危うく助かった場合にかける常套句なので、光源氏さんのお宅は、高潮の際に危うく流されそうなくらいの場所と割り引いて、解釈することにする。
光源氏さんのお宅は、津波、あるいは高潮時における津波による浸水高さ(ハザードマップの「高潮」と「津波」で0.5~3メートル)より高い場所にあったと考えられる。
https://www.hazardmap.pref.hyogo.jp/cg-hm/hazard-map/index.html
当時は、まだ防波堤がなかったであろうということを考慮すれば、光源氏さんのお宅は、標高3~5メートル前後から高かくても10メートル位い(ハザードマップの想定より高いが、このくらいは来そうな気がする)の場所にあったと思われる。
光源氏さんのお宅の場所を特定する条件をまとめると、
①「山中」である
②海岸に打ち寄せる波の音が聞こえる
③廊下に出れば海が見える
④家の前を通る舟から舟唄や漕ぐ音が聞こえる
⑤船には光源氏の奏でる琴の音が風に乗って聞こえる
⑥海岸と山が近い
⑦ギリギリ高潮が及ばない高さにある
ということになるだろう。
国文学者の高橋和夫先生も「源氏物語―須磨の巻について」
で、
と、おっしゃっているので、大きく間違っていることはないだろう。
光源氏さんのお宅の場所について直接言及しているわけではないが、『源氏物語』には
と書いてあり、ここでいう『文集』というのは白楽天(白居易)の『白氏文集』のことだそうで、光源氏さんはその書物をわざわざ須磨へ持ってきていた。
と、光源氏さんのお宅は「唐めいた」唐風の作りだったようである。
また、紫式部は、光源氏に
と、古歌を口ずさませている。どうやら光源氏さんは唐かぶれだったようだ。
隠遁生活をするにあたって『文集』を持って来て、唐風の家に住むというのは、今でいえば、アウトドアオタクがアウトドア関連の雑誌に影響されてログハウスを建てたり庭にテントを張ったっりウッドデッキの焚火台でむやみに焚火をするのに似ているだろうか?
どうやら、光源氏さんは白楽天の書物を読んで、唐風の閑居を建ててしまうという、唐風オタクだったようである。
光源氏さんのお宅の場所を特定するのには、白楽天がキーワードになりそうである。
国文学者の高橋和夫先生は「源氏物語―須磨の巻について」で、紫式部は白楽天の漢詩「香炉峰下新卜山居草堂初成偶題東壁」を『源氏物語』の作中で現実化していると指摘している。
このことは、光源氏さんのお宅の場所を特定する大きなヒントになる。
ちなみに、「白居易『香炉峰下新卜山居(香炉峰下、新たに山居を卜し~)』原文・書き下し文・現代語訳(口語訳)と解説」【マナペディア(中学・高校学習共有サイト)https://manapedia.jp/text/1932 】によると、この漢詩の題は、
「香炉峰のふもと、新しく山の中に住居を構えるのにどこがよいか占い、草庵が完成したので、思いつくままに東の壁に題した」という訳になるそうだ。
白文
白楽天の閑居が、光源氏の閑居のモデルの一つと考えて間違いないだろう。
「香 炉 峰」はそのまま香炉峰で「匡 廬」は廬山 (ろざん) の異称らしい。
白楽天の詩にある「香炉峰」というのは、山の形が中国の仏教や道教の寺廟の入り口に置かれる「大香炉」の下部の形に似ている山をいうそうで、白楽天が麓で閑居したという香炉峰は廬山にあるそうだ。
香炉峰のある廬山には、八仙(道教の代表的な仙人八人)のひとりの呂洞賓が修行の末に仙人になったとされる仙人洞とか、中国浄土教の開創地といいわれている384年創建の東林寺があるそうだ。廬山は中国の山水詩および山水画の発祥地ともいわれているという。
白楽天の詩に詠まれている廬山や香炉峰のイメージは、後の時代に描かれた水墨画で知ることができる。
水墨画を見ると、崖に挟まれた河川(滝含む)が描かれていることから、香炉峰の麓の代表的なイメージの特徴は崖に挟まれた河川といえるだろう。
須磨で波の音が聞こえて舟の見える場所、つまり海岸の近くで山の麓に崖に挟まれた河川がある場所といえば、一の谷しかない。
ほかにも、源氏寺(源光寺)のそばを流れていた(今は暗渠?)という千守川もあるにはあるが、山の麓というより山の縁を流れている感じで、崖に挟まれた河川ではないので「香炉峰下」のイメージとは、かけ離れている。
また、一の谷には兜の鉢を伏せた形から名付けられたという鉢伏山があり、八仙の一人李鉄拐の名を冠した鉄拐山がある。ただし『平家物語』に「鉢伏」(神功皇后の兜の鉢説があるので古くからの呼称と思われる)は出てくるが、「鉄拐」は出てこないので鉄拐山の『平家物語』以前の時代の名称は定かでない。
日本では、火鉢を香炉として使ったという説(正倉院には最古の現存の火鉢とされる「大理石製三脚付火舎」が収蔵されており、一説では香炉を兼ねたものらしい)があるそうで、形状はともかく香炉を鉢と呼ぶ用例が過去にあった可能性がありそうだ。現在でも鉄製の香炉の下の部分を鉢(鉄鉢香炉)と呼んだりするようである。
つまり、鉢伏山は香炉山(廬山)ともいえなくないのである。
鉢伏山と鉄拐山の麓近くで、崖に挟まれた河川は一の谷にある、一の谷川(赤旗谷川含む)と二の谷川しかない。
光源氏さんのお宅は、一の谷にあったといって良いだろう。
廬山については、李白が「望廬山瀑布」という詩を詠んでいる。ただし、李白の方が白楽天より年長だが、平安時代には伝わっていなかったとされている。
白文
書き下し文
白楽天が閑居の際、廬山(香炉峰)を選んだということは、李白を意識していたのかもしれない。
現在一の谷(一ノ谷2丁目)に滝はないが、鉄拐東麓を流れる一の谷川の支流の赤旗谷川上流には2連滝、4連滝があるそうである。
また、一の谷(一ノ谷2丁目)には、現在は暗渠になっているが高度成長期ぐらいまでは小川があったそうだ。この小川が海側への崖から流れ落ちたとすると、ちょうど正岡子規が滞在した緑の塔から一の谷2丁目への崖を登る道の西側の谷へ落ちることになり、滝のような水の流れがあったと考えられる。
「望廬山瀑布」の「紫煙」を藻塩の煙、「瀑布」を、昔あったであろう滝に見たてれば、一の谷には、白楽天や李白の詩の世界を縮小した水墨画のような風景があったといってよいだろう。
以上を考慮して、「今昔マップ」で5メートル前後の標高の場所で、光源氏さんのお宅の条件に当てはまる場所を調べてみると、一の谷プラザから緑の塔の間の公園の便所のあるあたりになるようだ。
一の谷プラザから緑の塔の間の公園の便所のあるあたりは、源氏物語や琴(光源氏が弾いている)、正岡子規など、日本文化を研究する施設(国際日本文化研究センターの分室など)があってもおかしくない場所といって良いだろう。
ずいぶん時代は下るが「廬山香炉峰」という絵がある。
http://www.cnzihua.cn/wp-content/uploads/2020/06/lysze00.jpg
なんとなく、一の谷に似ている気がする。
「①「山中」である」について補足。
明治時代ごろの一の谷5丁目あたりと思われる松林の写真によれば、
一の谷プラザから緑の塔の間の公園の便所のあるあたりは、海が近くても「山中」だったようである。
昔は山陽電車の軌道の土手がなかったので、 今よりも鉄拐山 の麓のイメージが強かったと思われる。