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一の谷は、織田信長が愛唱した『敦盛』の聖地⁉︎

織田信長が桶狭間の合戦の時、出陣の前に『敦盛』を舞ったことは有名だ。

『信長公記』には、

この時、信長は「敦盛」の舞を舞った。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか」と歌い舞って、「法螺貝を吹け、武具をよこせ」と言い、鎧よろいをつけ、立ったまま食事をとり、兜かぶとをかぶって出陣した。

『現代語訳 信長公記』

と書いてある。

死ぬかもしれないときに『敦盛』を舞うとは、そうとうな敦盛好きである。

『信長公記』に武田信玄が天沢和尚に信長の趣味を尋ねたという話がある。

それによると、信玄が信長の趣味は何かと問うと天沢和尚は「舞と小唄です」と答え、

舞については、

『敦盛』を一番舞うほかは、お舞いになりません。『人間五十年、下げ天てんの内をくらぶれば、夢幻のごとくなり(6)』これをうたいなれてお舞いになります。

『現代語訳 信長公記』

小唄については、

『死のふは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりおこすよの(7)』これでございます

『現代語訳 信長公記』

という小唄を好んで歌うと答えたという。

『現代語訳 信長公記』の注(6)(7)によると、それぞれの意味は以下の通りになるそうだ。

(6)人間五十年云々=人の一生は五十年。仏教でいう化楽天の時間に換算すれば、夢か幻のように短くはかないものだ。

『現代語訳 信長公記』

(7)死のふは一定云々=死は必ず訪れる。死後、私を思い出してもらうよすがとして何をしておこうか。きっとそれを頼りに思い出を語ってくれるだろう。

『現代語訳 信長公記』

敦盛では、敦盛は笛を忘れて取りに戻ったために熊谷直実に討ち取られてしまうが、それによって後世の人々が敦盛を思い出す「よすが」になっている。

人の一生は「短くはかないもの」だが、つまらないこと(笛を取りに帰って殺された)でも、死後に自分を思い出してもらう「よすが」になるのなら、自分は「何をしておこうか」と常に問う求道者のような信長の姿が浮かぶようだ。

桶狭間の合戦、延暦寺の焼き討ち、長篠合戦、本能寺の変など信長を思い出す「よすが」が、敦盛と違って華々しいものが多いのは、常に「何をしておこうか」と考えて行動していたからだろうか。

敦盛ファンの信長を、一の谷ファンだから義経ファンに違いないと思ってか、永禄11年に信長が入京した際に

一の谷の合戦に、鉄拐山(26)の崖を駆け下った時、着用していた鎧を献上した者もいた。

『現代語訳 信長公記』

という。※古文書の写しなどでは「鎧」でなく「鐙」となっているようである。

このことから『信長公記』では、一の谷の合戦で、義経が下った崖は鉄拐山の崖となっていることがわかる。

著者の太田牛一は、鵯越は鉄拐山の南斜面にあったとの鵯越一の谷説で『信長公記』を書いている。

また、このことは少なくとも『信長公記』が書かれた時点で一の谷の後ろの山を鉄拐山と呼んでいたことを示している。

『信長公記』によると一の谷は信長の指示で焼き払われている。

天正6年に荒木村重が謀反した際に、

十一月二十八日、信長は敵の本拠近く小屋野(22)まで進出した。四方から詰め寄って、要所要所に陣を構えるよう命じた。 一方、一帯の村々の農民たちは、揃って甲山(23)へ逃げ込んでしまった。信長は、許可も受けずにけしからぬことと思ったのか、堀秀政・万見重元に命じ、諸勢の徴発隊員を率いさせて、山々を探索させた。発見した農民たちは切り捨て、また兵糧や物資を思い思いに際限もなく徴発してきた。 次いで、滝川一益・丹羽長秀を出撃させた。両軍は、西宮(23)・茨住吉(24)・芦屋(25)の里・雀ガ松原(26)・三陰(27)の宿・滝山(28)・生田の森(29)へ進出した。さらに敵方荒木元清が花熊(30)に立て籠もっているのを軍勢を配 して封じ込め、山手を通って兵庫(31)へ進撃した。僧俗・男女の別なく撫で斬りに切り殺し、堂塔・伽藍・仏像・経巻の一堂一物も残さず一斉に焼き払い、さらに須磨・一の谷(32)まで進んで火を放った。

『現代語訳 信長公記』

とあり、

十二月四日、滝川一益・丹羽長秀は兵庫・一の谷を焼き払って軍勢を引き返し、伊丹をにらんで塚口(5)に陣を張った。

『現代語訳 信長公記』

と書いてある。

信長が、甲山(西宮市、有岡城の西)から一の谷(鉄拐山)までを焼き払ったのは、有岡城から一の谷までの烽火や火や旗などによる有視界通信網を破壊し、播磨や中国地方の毛利の援軍を防ぐ目的だったと思われる。

荒木村重ははじめ有岡城(伊丹市)に籠もって、尼崎城(尼崎市)に移って花熊城(神戸市中央区花隈町)を経由して尾道(毛利の支配地)へ逃れたといわれている。

荒木村重は、播磨や中国地方への有視界通信網が途絶えて、連絡や援軍がないのに焦れて有岡城(伊丹市)から、尼崎、花隈(神戸市中央区)へと移っていったのではないだろうか。

平家の武将が一の谷へ走って討ち取られて行ったのに似ている気がする。

時間は前後するが天正6年

六月二十九日、信長は、兵庫と明石(5)の間、また明石から高砂(6)の間は距離があるので、毛利方の水軍を警戒するため、しかるべき陣地を準備するよう命じ、織田信澄と山城衆を加えて万見重元を派遣した。万見は適切な山に陣地を築いて帰還し、情況を復命した。このほか、織田信忠の命令で、道筋の要所要所に林秀貞・市橋長利・浅井政澄・和田八郎・中島勝太・塚本小大膳・簗田広正が派遣され、交替で警固に当たった。

『現代語訳 信長公記』

と書かれており、信長は「毛利方の水軍を警戒するため」に、つまり、明石海峡と神戸沖の大阪湾と播磨灘の東半分の制海権を押さえるために、陣地をつくったことになる。

「兵庫と明石(5)の間」のもっとも見晴らしの良い場所が一の谷の鉄拐山、旗振山、鉢伏山である。

源平合戦の時代だけでなく、信長の時代も、瀬戸内海の制海権を押さえるためには、一の谷(鉄拐山・旗振山・鉢伏山含む)は極めて重要な拠点だったはずだが、『信長公記』にはあまり詳しく書いてない。

敦盛ファンの信長が一の谷を訪れていても良いようなものだが、そんな記録は見当たらなかった。

『信長公記』が書かれた時点でも有視界通信網の重要拠点だったため軍事機密に属していた、からかもしれない。

信長は、天正10年、甲斐から帰陣の途中に、徳川家康の接待を受けて富士山などを観光し「源頼朝が狩りの館を建てた上井手(9)の丸山」を訪ねている。

徳川家康が頼朝縁の地を信長の接待に使ったということは、草履取りから信長に仕え、信長が敦盛ファンであることを知っている豊臣秀吉なら、敦盛縁の地を信長の接待に使うに違いない、と思うのはわたしだけではないだろう。

歴史にもしもはないが、もしも、天正10年6月2日(1582年6月21日)に本能寺の変が起こらずに、信長が中国攻めに出て中国を平定していたなら、信長は豊臣秀吉の接待を受けて、大輪田の泊(兵庫津)や一の谷の海岸を訪れていたのではないだろうか。

なお、『信長公記』は

を使った。


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