『太平記』の「鵯越」について
『太平記』で「須磨の上野」(一の谷)や「鵯越」がどのように表現されているか調べてみた。
天正6年(1578)写本の『太平記』では、「鹿松ノ𡊣鵯越須磨ノ上野」※𡊣は「岡」の旧字体。
慶長8 (1603)写本の『太平記』では、「須磨ノ上野ト鹿松𦊆鵯越ノ方ヨリ」
貞享5年 (1688)写本の『太平記』では、「須磨ノ上野ト鹿松𦊆鵯越ノ方ヨリ」
永井一孝校訂の『太平記』(有朋堂書店, 1922)では、
「須磨の上野と、鹿松岡、鵯越の方より」
となっていた。
鹿松岡というのは、むかし高取山の北の麓の高台を越えるあたりに鹿松峠というのがあったそうだから、その峠のある岡なり山なりを鹿松岡と呼んだのだろう。
そうだとすると鹿松岡は、長田区鹿松町あたり(高取山の北の麓にあたる)にあった岡ということになるだろう。
須磨の上野と鵯越は直線距離で6.5キロ程度(六甲山系の山を挟んでいる)で、長田区鹿松町は鵯越の碑(兵庫区兵庫区)から直線距離で1.2キロ程度で、兵士や騎馬の間隔などを考慮すると、2方面に分けるほどの距離はない。
足利勢は会下山の楠木勢を須磨の上野(一の谷を地名地名)と鹿松岡鵯越の2方面から攻撃したということになるだろう。
また、天正6年(1578)写本の『太平記』は「鹿松ノ𡊣鵯越」が先に、慶長8 (1603)と貞享5年 (1688)の写本の『太平記』では「須磨ノ上野」が先に書かれている。※𡊣は「岡」の旧字体。
このことは、「鹿松ノ𡊣鵯越」「須磨ノ上野」と二つに分けて読むということだから、2方面からの攻撃は元の記述と合うように思われる。※𡊣は「岡」の旧字体。
大正11年の永井一孝校訂の『太平記』は、元和(1615年から1624年)の片仮名本を底本にしているので文字の順序は、慶長8 (1603)と貞享5年 (1688)の写本と同じである。
ところが、永井一孝校訂の『太平記』(有朋堂書店, 1922)では「須磨の上野と、鹿松岡、鵯越の方より」と、「鹿松岡、鵯越」と「鹿松岡」と「鵯越」の間に「、」を加えてしまったために、3方向から攻撃したかのような表現になっている。
『太平記』では、「須磨の上野」(一の谷を含む)と「鵯越」が別の場所として表現されているから、『平家物語』に出てくる鵯越は現在の位置としか考えられないと主張する人がいるかもしれないが、永井一孝校訂前の『太平記』では「鵯越」ではなく「鹿松岡鵯越」となっている。
『平家物語』延慶本の「かたきのじやうのうしろなるひよどりごへをのぼりにける」と同じように「鵯越」を六甲山全山縦走コースのように東西の道として読めば、「鹿松岡鵯越」は鹿松岡(長田区鹿松町か?)辺りの鵯越という意味に読める読めるので、『平家物語』延慶本の鵯越の位置に矛盾は生じない。