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正岡子規が愛した須磨一の谷②

正岡子規の『寒山落木』を見ると、
安徳帝内裏跡を詠んだような句があった。

『寒山落木 巻二』明治26年

名所とも知らで畑打つ男哉
畑打や草の戸つづく内裏跡

須磨一の谷の安徳帝内裏跡

明治39年以前に販売された絵葉書の安徳帝内裏跡を見ると、たしかに、畑があったようだ。この明治26年の句は、子規が須磨保養院に来る前だが、明治28年の句より絵葉書のイメージにピッタリだ。

『寒山落木 巻四』明治28年
涼しさや内裏のあとの小笹原

須磨一の谷の安徳帝内裏跡 右隅に宗清稲荷祠

明治40年以降に販売された絵葉書の安徳帝内裏跡を見ると、小笹原なのか松林なのか微妙な感じだ。

この絵葉書の漢詩を書いた織田完之は荒俣宏の『帝都物語』に登場している。


『寒山落木 巻四』明治28年

牡丹咲く賤が垣根か内裏跡

須磨一の谷安徳帝内裏跡

明治40年以降に販売された絵葉書の安徳帝内裏跡を見ると、畑は芝生に変わってしまっている。
粗末な垣根も完全に洋風になっている。牡丹より薔薇が似合いそうだ。

子規が見たままを詠んだとすると、
安徳帝内裏跡のガゼボ(四阿・東屋)は、明治28年以降明治39年以前に整備されたということになるだろう。

明治25年にジョン・ホールが異人山(安徳帝内裏跡含む)に洋館を建てて住み始めたらしいが、子規が訪れた頃は、まだ粗末な日本家屋も残っていたということになる。

一ノ谷とは関係ないが、子規は明治25年8月に布引の滝を訪れている。

『寒山落木 巻一』明治25年

布引も願ひの糸の数にせむ

明治40年以降に販売された絵葉書の布引の滝。
明治時代の神戸では、布引の滝や諏訪山が観光地だったようだ。

また、子規は明治27年11月にも神戸を訪れている。東京と実家の間に神戸があるから、ちょくちょく来てて当たり前か・・・

『寒山落木 巻一』(明治25年)には、

須磨を出て赤石は見えず春の月
聞きにゆけ須磨の隣の秋の風

と「須磨」を読んだ句がある。

また、『寒山落木 巻一』(明治25年)には、

明治廿五年 一月燈火十二ケ月ヲ作ル其後何々十二ケ月ト稱スル者ヲ作ルコト絶エズ 春根岸ニ遷ル 夏歸省ス 九月上京 十一月家族迎ヘノタメ神戸ニ行ク京都ヲ見物シテ上京

とあり、明治25年の夏に帰省し9月に上京、
11月に再び神戸を訪れいる。

布引を観光し、須磨明石の句を詠んでいるくらいだから、一の谷の安徳帝内裏跡を観光していても、
不思議はないだろう。

もし、そうならば、『寒山落木 巻二』(明治26年)の

名所とも知らで畑打つ男哉
畑打や草の戸つづく内裏跡

は、明治25年の情景を元に創作した句といえる、
かもしれない。


『寒山落木 巻三』(明治27年)には

板の間にはねけり須磨の桜鯛

という句もある。

この他にも『明治二十九年俳句稿』 (明治29年)に

雪洞に千鳥聞く須磨の内裏哉

という句がある。

この句には

右の句雪洞と須磨内裏とは時代の相違あるに気つかで作りしものしかも之を非難せらるる人と共に回護せられたる人も多く議論紛々たりし当座の盛況も思ひいだされて暫くここに存し置くくこととはなしぬ猶考ふべし

『明治二十九年俳句稿』 (明治29年)

との注記がある。

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