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英雄ショーペンハウアー!「英雄の見る処は大概同じである」by夏目漱石

 不思議なことに、「カーライル」や「天然居士(米山保三郎)」と同様に「厭世」と「英雄」をキーワードに漱石の作品をたどって行くと、ショーペンハウアーに突き当たる。

 漱石は一九一〇年(明治四十三)ごろの「断片」で「或る香をかぐと或る過去の時代を臆起して歴々と眼前に浮んで来る朋友に此事を話すと皆笑つてそんな事 があるものかと云ふショーペンハワーを読んだら丁度同じ事が書いてあつたさすが英雄の見る処は大概同じであると我ながら感に入つた我輩を知りもせぬもの迄 が我輩を称して厭世家だ杯と申す失敬だと思つて居つたが成程厭世家かも知れぬ」(倫孰の香ひ 十月ニナルト去年ノ十月ヲ臭デ思出ス 明治四十三年「断片」)と、ショーペンハウアーを英雄と呼び、ショーペンハウアーと同じなら自分も厭世家かもしれな いと述べている。

 漱石が述べているようにショーペンハウアーは厭世哲学者として有名である。一八九二年(明治二十五)に中島力造(なかじまりきぞう:一八五八―一九一 八、明治-大正時代の倫理学者)が「欧州厭世哲学」(『本郷会堂学術講演』警醒社、一八九二年)で、ショーペンハウアーを厭世哲学者と紹介していることな どから、漱石の大学生時代には、既にショーペンハウアーは厭世哲学者として理解されていたと思われる。

 漱石は「厭世」について『文学評論』で「凡そ吾人の厭世に傾く原因のうちで其最も大なるものは何であらうと考へて見ると、私は斯う思ふ。―吾人が吾人の生活上に、所謂開化なるものの欠く べからざるを覚ると同時に、所謂開化なるものの吾人に満足を与ふるに足るもので無いことを徹底に覚つた時である。」「所謂文明なるものは過去、現在、未来 に互りて到底人間の脱却することの出来ぬものであると知ると同時に、文明の価値は極めて低いもので、到底この社会を救済するに足らぬと看破した以上は、腕 を拱いて考へ込まなければならぬ、天を仰いで長大息せねばならぬ。厭世の哲学は這の際に起るものである。厭世の文学は這の際に起るものである。」などと述 べている。

 このことと、漱石が、厭世哲学者ショーペンハウアーと自己を同一視していることを考え合わせれば、漱石の文学も「厭世の文学」に分類できそうで ある。

 また、先に述べたように漱石が好んだカーライルは『英雄と英雄崇拝論』がとくに有名であることから、漱石がいう「英雄」は、カーライル的な「英雄」、つ まり、道徳的意志を体現した英雄や偉人なしには歴史的進展はないという意味での「英雄」であると推理することができる。

 漱石もショーペンハウアーと同様に 「英雄」というのだから、ショーペンハウアーの道徳論と漱石と何か関係がありそうである。

 じつは、漱石が「英雄」と呼ぶショーペンハウアーは、道徳の基礎を同情(Mitleid)に置いた哲学者として有名なのである。

 ショーペンハウアーは、人間の行為の根本衝動を①「自己の快を欲するエゴイズム」 ②「他者の不快を欲する悪意」③「他者の快を欲する同情」の三つに分類し、③の同情にもとづく行為のみに道徳的価値を認めている。

 同情にもとづく行為とい うのは、他者の快を侵害しない公正と他者の快を増大させる人間愛の行為のことで、このショーペンハウアーがいう意味での「同情」は「同苦 (Mitleid)」と呼ばれている。

 冒頭に挙げた匂いのエピソードだけでなく、ほかにも漱石と、漱石が「英雄」と呼ぶショーペンハウアーに共通する点がある。

 漱石が「ガリバーは普通人には理解できない」というスウィフトの『ガリヴァー旅行記』をショーペンハウアーも評価しているのだ。

 ショーペンハウアーは主著『意志と表象としての世界』で「ハムレットな らこのガリヴァーの作者を『なかなか辛辣なやつ』(『ハムレット』第二幕第二場)と呼ぶであろうが、作者が言おうとしていたことをよく心に留めるために は、『ガリヴァー』の物語の中の物質的なことがらをすべて精神的に解釈し直しさえそれでよいのである。」と書いているのである。

 漱石は『文芸評論』でショーペンハウアーがいうように物質的なことがらを精神的に解釈して『ガリバー旅行記』を以下のように解説している。

 「人間は大きくなればなる程傍若無人の非行を逞しくする。又人間の大小なども要するに比較的 のもので、小人國では山の様な男と呼ばれたガリヴァが大人國へ来ると宛然たる小人國民である。同時に小人國の住民の眼にさへも更に小人國の民と見える様な 小人が無いとは限らん。と斯う云つた哲理は少しく頭脳の発達した人には誰にでも解る。」と。

 なるほど、「英雄の見る処は大概同じ」である。

 このように「厭世」と「英雄」をキーワードに漱石の作品をたどって行っても、「カーライル」や「天然居士(米山保三郎)」と同様にショーペンハウアーに 突き当たるのである。

 これ以上はくどくなるので書かないが、漱石の作品に登場する「ニーチェ」「ハルトマン」「ケーベル」「寺田寅彦」「自殺」などをキー ワードにたどって行っても、ショーペンハウアーに突き当たるのである。

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