
一の谷は、正岡子規の聖地⁉︎ 『9月14日の朝』「虚子と共に須磨に居た朝の事などを話し」・・・
正岡子規の『9月14日の朝』に
虚子と共に須磨に居た朝の事などを話しながら外を眺めて居ると、たまに露でも落ちたかと思うように、糸瓜の葉が一枚だけひらひらと動く。その度に秋の涼しさは膚(はだ)に浸み込むように思うて何ともいえぬよい心持であった。何だか苦痛極(きわま)って暫く病気を感じないようなのも不思議に思われたので、文章に書いて見たくなって余は口で綴(つづ)る、虚子に頼んでそれを記してもろうた。
と書いてある。
子規がいう「須磨に居た」というのは、
一ノ谷町5丁目の緑の塔のあたりのことだ。
子規は、この四日後に
糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな
をととひのへちまの水も取らざりき
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
の三句を残して、9月18日に亡くなる。
須磨(一の谷)には、
病気療養のために来ただけなのに、
子規は、
「須磨に居た朝の事などを話しながら外を眺めて」「秋の涼しさは膚(はだ)に浸み込むように思うて
何ともいえぬよい心持で」
「何だか苦痛極(きわま)って暫く病気を感じないようなのも不思議に思われた」
と、
須磨(一ノ谷)に居た頃のことを
思い浮かべながら、
えもいわれぬ爽快感を感じている。
なんとも、不思議な話だ。
高浜虚子は『子規居士と余』(大正4)で
この文中に「須磨に居た朝の事を話す」とあるのは、独りこの日ばかりでなく、談話の材料に窮した時は余はいつも須磨を話題に選んだものであった。前にも書いたことがあるように須磨の静養は居士の生涯に於ける最も快適な一時期であったので、如何に機嫌の悪い時でも、どうかして話の蔓(つる)をたどってそれを須磨にさえ持って行けば、大概居士の機嫌は直おったのであった。この朝は初めから機嫌がよかったが、話は自然須磨に及んで居士はやや不明瞭な言葉で暫く楽しく語り合った。
と書いている。
まるで、
恋人との楽しかった日々を
思い浮かべているかのようだ。
最も須磨(一の谷)を愛した
文化人は、正岡子規
と言って良いだろう。
うれしさに涼しさに須磨の恋しさに
六月を奇麗な風の吹くことよ
水無月の須磨の緑を御らんぜよ
子規が詠った須磨は、
一の谷で間違いないだろう。
