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シーボルトが食べた敦盛蕎麦は、蕎麦より作れる饂飩(うどん)だった!?

『神戸・兵庫の郷土史WEB研究館』の

「シーボルトが見たひょうごの地(『シーボルト江戸参府紀行』より)」

一ノ谷で「蕎麦より作れる饂飩にて名ある飲食店途に當れり。人々すべて飲食して・・・」と、有名な敦盛蕎麦を食べている。

とある。

「蕎麦より作れる饂飩」という書き方が気になった。

『異国叢書』第2巻

で「シーボルト江戸参府紀行」を確認すると、

蕎麦より作れる饂飩にて名ある飲食店(○有名なる敦盛蕎麦のことなり)途に當れり。人々すべて(○立寄り)飲食して気を引立つるなり。

「シーボルト江戸参府紀行」『異国叢書』第2巻

と同じことが書いてあった。

シーボルトの江戸参府に

弟子の高野長英が同行したそうで、


高野長英の出身地の水沢は、

わんこそばの本場花巻のすぐ近くだ。


高野長英は、

蛮社の獄で捕らわれて後、

脱獄して立ち寄った越後で、

蕎麦と馬鈴薯の栽培を奨励している。

https://www.jomo-news.co.jp/playback/data/?p=20171223%0A

高野長英がいて、

「蕎麦より作れる饂飩」と和訳されるような文書が

残るだろうか?


蕎麦についての専門知識がある高野長英なら、

蕎麦なら蕎麦と書くはずである。

高野長英が

師匠のシーボルトの著作の

下調べや校正を手伝ったとすれば

当然指摘するだろう。


「蕎麦より作れる饂飩」が誤訳

(例えば、日本語:麺→蘭語:noedels→日本語:饂飩など)

でなければ、

文字通りに解釈するべきだろう。

つまり、

シーボルトが食べた敦盛蕎麦は、

いわゆる切り蕎麦

ではなく、

饂飩(うどん)に蕎麦粉を混ぜて作った
麺だったのである。

わかりやすく言うと、

蕎麦に割粉(小麦粉)ではなく、
小麦粉に蕎麦粉を入れて、

饂飩(うどん)と同様の製法で作った
麺だったということだ。


現在も敦盛蕎麦は

一の谷5丁目にあるが、

現在の敦盛蕎麦は

須磨浦公園の立体駐車場の裏にある

新興住宅地にある民家のような建物で、

歴史も伝統も感じさせないモノになってしまっている。

おそらく、味も普通に美味い手打ち蕎麦なのだろう。

※敦盛蕎麦が須磨海浜公園の立体駐車場の裏にあるということは、敦盛塚も、須磨海浜公園の立体駐車場の裏にあるということになる。立体駐車場とガスト(閉店した)の間にあるとも言える。敦盛塚も、歴史も伝統も感じさせないモノになってしまっている。

むかしの敦盛蕎麦と敦盛塚


長塚節が『蕎麥屋』で

「不味いこと甚だしい」と述べた蕎麦は

「蕎麦より作れる饂飩」だったのかもしれない。

蕎麦のつもりで饂飩(うどん)を食べると

誰が食べても不味いに違いない。

リートン作:蕎麦より作れる饂飩

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