【短編小説】鵯越を逆落し
須磨保養院(貸別荘)に滞在した明治二十八年の夏は、正岡子規にとって特別な夏であった。
この日、彼は朝から握り飯を持って、保養院の女中の鶴を伴い、俳句を認める帳面を手に、鉄拐山を散策していた。
帳面に「夏山のこゝもかしこも名所哉 子規」と書くと、子規は
「おう、ここが鵯越かあ。須磨の浦が一望じゃ。『平家物語』のとおりじゃ」そういうなり、駆け出した。
「正岡さま、そんなに走ったったら、転んでやで」
「うわっ」
「あなた、大丈夫。あそこから、落ちてきたのよ」
「おー、わしゃ、いま鵯越を…」
「ここが鵯越のはずありませんよ、今日も『鵯越兵庫説』について、テレビの取材の方がみえてますから」と、妙齢ともしれぬ女は笑を浮かべて、スタッフたちを指さした。
「なんじゃ、みんな妙ちきりんな格好じゃのう。棒なんか持って、野球でもしよるんか」と子規が呟いたのを聞いて、女は、
「いまどき、着物なんか着てる、お兄さんの方が、みょうちくりんですよ」と、笑った。
女がいうには、歴史学では『平家物語』に出てくる「鵯越」の場所は、一の谷ではなく兵庫の鵯越になっているという。この「鵯越兵庫説」の取材にテレビ局が来ているのだ。
子規は、畑を機械で耕す男を見つけると「名所とも知らで畑打つ男哉」と呟いて、
「なんじゃ、安徳帝の内裏跡で畑とは、剛毅じゃの、なにをつくりよんじゃ」と女にたずねた。
「内裏跡なんてなかったそうですよ。だって『平家物語』の『一の谷』は兵庫区にあったそうだから」と女がいうと、隣で聞いていた初老のエム氏が口を挟んだ。
「なにを言ってるんだ。『平家物語』に書いてある一の谷はここで良いんだよ」
土煙を上げながら、何かが崖を落ちてきた。
「だれだよ、鎧武者なんかキャストしてないよ」ディレクターらしき男がいった。
「大丈夫か、すごい落ち方したけど」スタッフが心配そうに駆けよると、
「心配無用。九郎としたことが、ぬかってしもうた」
「ダメだよ。役に入っちゃってるよ」スタッフの困惑の声を遮って、
「わたし今日、このあと、講演があるので、ほっといて、早く撮りましょう」と、不機嫌そうに三十路を越した女(ケイ博士)がいった。
「じゃ、撮りまあす」とスタッフが声をかけ、撮影が始まった。
「今日は、歴史地理学がご専門のケイ博士にお越しいただきました。早速ですが、鵯越はあちらではないんですか?」
「ハイ、『平家物語』では鵯越は一の谷の後ろとなっていますが、それは間違いです」ケイ博士は笑顔で解説した。
「あんた、あほかいな。私がいま落ちてきたあそこが、鵯越やし」
「あなたダレ?」ケイ博士がいった。
「わたしは、九郎義経。源氏の棟梁になる男じゃ」
「あなた、そんなこといってると、ほんと、スタッフに叱られるわよ」
ケイ博士を無視して、
「いま、鵯越の上から老馬を二頭落としてな、勝敗を占って、平家に見立てたお馬さんが死なはったから、こら勝てるいうて、鵯越から降りるとこでしたんや」というと、義経は戦術の説明をはじめた。
「一の谷の鉢伏山のへんはな、摂津、和泉、淡路、播磨、讃岐や伊予の方まで見渡せるさかい、狼煙や旗で連絡とれますのや、夜中は松明も使えますしな。ここを押さえたら、平家は、大輪田の泊になんかいてられへんようにならはります」
「いましがた、弁慶に平家方の偽の退却の鐘たたいてもろうて、偽の狼煙もあげてもろたとこや。平家は一目散に逃げはりますやろ」
義経は得意げに周囲に目をやって
「一の谷の崖を下りていかはる平家の行列の後ろを、押して、ころばはったとこを芋刺しに…」
「あなた、役になりきってデタラメいわないでよ。関西出身の多田行綱がこの辺の地理に詳しいから、義経は行綱といっしょに、兵庫の鵯越から大輪田の泊まりを攻撃したのよ」
「なにいうてはんの。鵯越は播磨路の間道やさかい、多田はんは武庫山の伊孑志の方から鵯越を通って大輪田の泊まりを攻めはるんや」
「ほんと、あたまにくるわ、いい加減にしなさいよね」
ケイ博士の怒りなど意に介さず、
「平家の烽火台を潰して、屋島との連絡を断つのが役目やさかい、この九郎が攻めるのは、一の谷の後ろの鵯越からで間違いあらしまへん」と義経はいった。
どこのプロダクションだとスタッフにしぼられた義経は「鎌倉の兄上にゆうとくさかいな」と捨て台詞を吐いたが、なにに興味があるのか、それからは大人しく撮影を見守った。
「それでは続き撮ります」の声がかかると、ケイ博士はなにもなかったかのように、台本どおり話し始めた。
「ここが鵯越というのは間違いです。安徳帝の内裏跡があったなんていうのも、創作です」
「なるほど、『平家物語』は史実に基づいていない、須磨区には鵯越はなかったということですね」
「ハイ、鵯越は、兵庫区にあります」
それを聞いてこんどは、エム氏が
「なに、いってんだ。新しい文献が見つかったのか?」と叫んだ。
「おじさん、困るよ。いま、カメラまわってるんだから、見物の方は不規則発言しないで」ディレクターが注意した。
「『平家物語』に出てくる鵯越は一の谷の後ろなんだよ。史実っていうなら、証拠を示せよ」エム氏の声を遮って、ケイ博士は、満面の笑顔で
「鵯越は、兵庫区にあります」といった。
「だいたい、あんた『平家物語』読んだことあんのか」
「失礼ね。『平家物語』のどの本のことかしら?」
「延慶本だよ。延慶本」
平家の話で熱くなるエム氏とケイ博士をみて、子規は「ある人の平家贔屓や夕涼」と呟いた。
エム氏の主張をかいつまんでいうと、鵯越は、六甲山地の東端の武庫山の近くにあり、播磨の鹿が丹波へ渡るときに通り、鵯が春と秋に越える山にあること、鵯越から播磨路へおりてその渚へ行けること、六甲山地の西端にある鉢伏山から一の谷の状況を確認してから鵯越から老馬を落とすことができること、これらを同時に満たすのが『平家物語』の延慶本がいう「鵯越」である。一言でいえば、宝塚市の伊孑志、兵庫区の鵯越、須磨区の鉢伏山を結ぶ播磨路の間道が鵯越である。
エム氏の主張はそれほど珍しいものではなかったが、さきほど、義経に一蹴されたばかりなので、現場には「鵯越兵庫説、ほんとうかよ?」という空気が漂った。
それを敏感に察したケイ博士は「ひどい」といったあと、少し間をおいて、
「鵯越は、兵庫区にあります」と、高らかにいうと、大きな瞳から、はらはらと大つぶのダイヤのような涙を、流してみせた。
それを見ていた義経が、
「かなわんなあ、女子はんが、そんな泣き方しはる時は、たいがいウソやゆうてうちの嫁がゆうてはったわ。うちの嫁やったら、泣きまねなんかせんと、論敵の首とってしまわはるわ」と、いった。
「あんた、さっきから何よ。『女子が』って、『おなご』って言い方、気分悪いのよ。良い加減にしなさいよね」
台本を丸めると、ケイ博士は「あんたの首とってやるわよ」といいながら、義経に殴りかかった。
「やっぱり、女子はんは、そんくらい元気やないとあきまへん」という義経のことばが、ケイ博士の怒りを爆発させた。
「わたしもね、本当のことはわかってんのよ。『鵯越兵庫説』はね、新史料が出て来ないから、博論書くのに持ってこいなの」ニコニコしながら逃げ回る義経。
「反論されないし、反論されたら『それは「平家物語」の創作です』とか『文献であとづけられていないので後世の創作と思われます』って可愛くいってりゃ、すむのよ」と、義経の兜をポカポカと叩いた。
「こっちはね、奨学金っていう名前の借金背負わされて必死なの、学術的になにが正しいかなんて、はなから関係ないんだから。目立って楽に博士号取って、就職したもん勝ちなの」
義経はなにやら嬉しそうに、
「奨学院が借金?なにいうてはるんか、さっぱり、わからしまへん」と、奨学金の意味を知ってか知らずか、ケイ博士の気持ちを上手に逆撫でした。
「『奨学金』が『学生ローン』と同じ意味の世界じゃ、鵯越の場所の捏造くらいかわいいものじゃない。学術的な真理じゃ、ご飯食べらんないのよ。ばーか。バラエティー番組に出てなんぼなのよ。そんなことも知らないの。ばーか。ばーか」ケイ博士は、嬉々として義経を追い回し、ポカポカと叩き続けた。
「これまずくないですか?」
「いや、これはこれで、アリだ」
テレビ局のスタッフがそんな内輪話しをしているうちに、義経とケイ博士の揉み合いはますます激しさを増し、突き飛ばされた拍子に義経は一の谷の内裏跡から、さらに下の赤旗谷川へと落ちていった。
その様子を見ていた子規は、義経の背の膨らんだ母衣を眺めて「牡丹咲く賤が垣根か内裏跡」と呟くと、義経の後を追って飛び降りた。
「正岡さま、怪我しとってないですか」と、鵯越の崖下まで降りてきた宿の仲居が、子規の着物の土をはらいながら、微笑んだ。
「わしゃ、いま、変な夢をみたんじゃ」
「昼間っから。起きとってやのに夢ですか」
「変な女子の博士が出てきての」
「まあ、正岡さまが女子の夢やて…」
「ちがうぞな。なんや、やかましい女子の博士が、鵯越はここじゃのうて、兵庫津の山側にあるいいよるんじゃ」
「そういうふうに、言うての人もおってですけど…」と、少し考えてから、
「向こうが本家なら、『鵯越』という字(あざ)もない須磨の一の谷に鵯越があったやなんて、あとから、いわせてもらえへんのとちゃいます」と、仲居はいった。
「一の谷はここもかしこも『平家物語』の名所じゃのに、歴史学では、兵庫にあったといわれてものう、興醒めじゃ」
「ほんまに、ここはながめも良いし、戦のときは、狼煙をあげるのに重宝しとったと、いうてのお侍さまもおったったいうくらいやから、ここが鵯越なんとちゃいますか」
「そうじゃの、お鶴さんがいうなら、鬼に金棒じゃ。わしゃ、歴史学なんぞ、どうでもええ。わしが落ちたここが、鵯越じゃ」
そういうと、子規は帳面に
「ほととぎす 鵯越を 逆落し」
と認(したた)めた。
この作品はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。