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警察精神界の革命:暗示の為のスローガンの更新

 一九四九年(昭和二十四)、警察官の志気高揚のために警察大学校教頭(のち校長)弘津恭輔氏が、『新しき警察のために―國家と警察』を著した。

 弘津氏はその後、国際勝共連合・世界平和教授アカデミー理事、教科書正常化国民会議理事などを勤めた。

 弘津氏が、その「序」で「新しい警察制度が確立されて以来、警察法や警察制度に付いては多くの有益な著作が公にされたが、警察の本質、理念の問題や警察 精神等の問題に付いては、未だ公刊された書物が見当たらない様である」と書いているように『新しき警察のために―國家と警察』は、戦後、始めて警察精神に 関する問題について書かれた書物であった。

 弘津氏は、「嘗ては天皇陛下の警察官と自ら称し、またそれを信じ、それに誇りを感じていた警察官が、新しい憲法によって『公共の奉仕者』として規定さ れ、日本国家の主権者は天皇ではなくして、吾々国民であると聞かされる。それはあまりにも大きな変革であり、正に警察精神界の革命である」と、「天皇陛下 の警察官」が「公共の奉仕者」となったことを「警察精神界の革命」と位置づけた。

 また弘津氏は、「『陛下の警察官』と云うことが、今日、兎角の批判を受けるのも、警察官だけが民衆より一段上に立って天皇陛下の御名に於て民衆に命令せ んとした一部の者の『思い上り』に原因があると思う。『陛下の警察官』というスローガンが、嘗ての全警察官の志気を鼓舞したのは、警察官は一党一派の私兵 ではない、国家公共の利害を考え、公正な立場から正義を遂行すべき者であると云うことにあったのである。即ち、それは天下の公僕たるの誇りと自負に由来し たものであった。」と、「天皇陛下の警察官」というスローガンと「公僕」を結びつけた。

 弘津氏は、「警察精神界の革命」の結果、「天皇陛下の警察官」から「公共の奉仕者」となった警察官は「公僕」と呼ばれるようになったというのである。

 し かしこれは、松井茂が「暗示には簡潔の言葉が必要にして、情意投合とか、肝膽相照すとか、以心伝心とか、警察の民衆化とか、何れも皆其の一例である。」と 考え、群衆(巡査)に対する暗示として使用した「警察の民衆化」というスローガンと同様の意味しか持たないのであれば、「天皇陛下の警察官」が「公共の奉 仕者」や「公僕」になったところで、暗示のためのスローガンが替わったにすぎない。

 さらに、弘津氏は警察教養について、「心ある者の口から警察教養の重要性が強調せられ、真に正しい警察の再建が叫ばれつつあるのは偶然ではない。政府に 於ても、従来の警察講習所を中央警察学校に昇格せしめ、更に警察大学校と改称し、その下に数校の管区警察学校を設け、府県警察学校をその下に置き警察教育の体制を整えた」と述べている。

 警察大学校の設置は、松井茂が『警察讀本』(日本評論社、一九三三年)の「警察大学設 置の提唱」で「社会の進運が警察行政の力に期待する事の益々多き現状において、誠に我国のような世界に比類なき警察組織を有する国柄にあっては、将来警察 大学を設くべき時運に到達すべきことも、敢て架空の希望ではない。」と述べたことと、一致している。

 松井茂のこの言葉が、第二次世界大戦後、警察大学校と して実現したのである。

 このように、松井茂の「警察精神」は松井茂先生自伝刊行会委員であった弘津恭輔氏を媒介として第二次世界大戦後の日本に生き続けることになった。

 そしてこの弘津恭輔氏の考えは、彼一人のものではなかった。

 そのことは、『山形県 警察史』(山形県警察本部、一九七一年)の「混沌たる戦後の警察界において整然たる理論をもって明確にその方向をさし示したのが、中央においては時の警察 大学校教頭であった弘津恭輔であり、本県においてはその流れを汲んだ警察学校長花輪吾助であった」との言葉が証明している。

 花輪吾助氏は、一九四八年(昭 和二十三)二月十日の警察法施行に先立ち、山形県警察が山形県警察練習所の名称を山形県警察学校と改めた際、初代山形県警察学校長(教養課長兼務)に任命 された山形県警察の警部であった。

 花輪氏のように「警察大学校教頭であった弘津恭輔」の「流れを汲んだ」警察大学校修了者(警察幹部)は、山形県警にだけいたのではない。

 弘津恭輔氏の流 れを汲んだ警察幹部は、全国の警察学校の指導者として存在したのである。

 このような警察官を模傚中心として、松井茂の「警察精神」は現在の警察に受け継が れていったのである。

 そして松井茂の模倣の法則を応用した模傚と暗示は、心理学的な監督、イメージによる操作へと進化し、より精緻に人間をコントロールできるようになっていくのである。

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