危機管理論における危機管理広報:警察のイメージのダメージ・コントロール
R.M.モンボイスは、『市民と警察』のなかで「人間には安全に対する欲求」があり、「人は誰でも自然現象と、恐怖からの安全を求める」と述べ、恐怖 は、単なる想像からも生れ、「単なる想像から生れた恐怖でも個人の行動、社会の行動に影響を与える」と指摘している。
この指摘は、穂積陳重の「『タブー』 は行為の禁諱にして、其違反者は禍災を蒙るべしとの信念に基くもの」で、「原始的社会」においては「タブー」が警察の代わりに規範の実行を保障していた(『法律進化論 第三冊 原質論 前篇』岩波書店、一九二七年)との指摘を想起させる。
モンボイスの指摘した「単なる想像から生れた恐怖」と元警察官僚の佐々淳行氏が一九九〇年代から展開している「危機管理論」における「危機」との間に共通点がみられる。
佐々氏は「危機管理でいうところの危機は予測が全く不可能」と述べ、「危機管理」を「クライシスマネジメント」とも呼び、クライシスマネ ジメントとリスクマネジメントが対象とするものの差異について、「リスクはある程度予測可能」で「損得に関すること」で、クラィシスは「予測不可能で人命 や組織の名誉あるいは存続にかかわる重大事件・事故」で「生死にかかわる問題」(佐々淳行「序」『危機管理宰相論』文藝春秋、一九九五年)であると述べている。
この「危機管理論」でいうところの「危機」は「予測が全く不可能」であることから、何時・何処でということを事前に特定できない。何時・何処である かを、特定できない点では、モンボイスが指摘した「単なる想像から生れた恐怖」と変わりない。
つまり、人間の頭の中にあるイメージでしかない。
佐々氏は「これまで危機管理のようなことは警察がやってきた」(佐々淳行『危機の政治学』新潮社、一九九二年)という。
この「危機管理論」の性質は「危機管理広報」(危機管理記者会見、つまり「言葉による危機管理」)によく現れている。
佐々氏は『日本の警察―「安全神話」は終わったか』(PHP研究所、一九九九年)で「危機管理広報の重要性」に言及している。
佐々氏によれば、広報活動 には「『積極広報(プラス広報)』と『消極広報(マイナス広報)』がある」という。
「プラス広報とは、『都民の警察官』表彰、犯人逮捕に協力した市民に対 する『警視総監賞』授与」「『交通安全運動』の行事に警視総監がたすきがけで参加するとか、アイドル歌手の『一日署長』パレードとか、警察のためになるいい面を広報し、理解と協力を求める広報である」。交通安全や防犯のキャンペーン等々もこれに含まれる。
「消極広報(マイナス広報)」とは、都道府県警察の不祥事事件や「警察官の非行事件の幹部の記者会見である」。そしてそれは、「記者会見のやり方ひとつでプラス広報にもマイナス広報にもなる」という。
そして佐々氏は、警察の場合「言葉による危機管理」は、「発生した非行事件による警察の威信失墜などの被害を最小限に食い止めるための『被害局限=ダメージ・コントロール』の〝防衛的″な〝記者会見″(プレス・リリースのPR)である場合が多い」として、「民主警察の運営・行政管理には、この〝防衛的〟な〝記者会見〟(プレス・リリースのPR)技術が、上級職幹部に必須なプロフェッショナルなノウハウ」 となると述べている。
「危機管理記者会見」に際しては、「会見前に事前に『想定問答』をつくって討議したり、『さら問』(さらに問われた場合の意。国会の 政府委員答弁資料作成上の常識)を準備して、Q&A(質疑応答)に備えて縦深陣地を構築しておくなど、PR(プレス・リリース)の訓練をしておくことが肝 要である」(佐々淳行「危機管理広報の重要性」『日本の警察―「安全神話」は終わったか』)と、十分な準備をすることを推奨している。
佐々氏は『新しい監督者論』でも、動物の一群を支配するボスに監督者(つまり警察幹部)を喩えて「このボスは、日常は〝獅子の分前〟(強者の権利)を恣にしておるが、一旦敵の襲撃を受けるというように非常事態に際しては、一群の危機を救うために命懸けで敵と闘い、自分を犠牲にしても群の安全を守ろうとす る」「警察において部下が命令に従い、上司を敬い、待遇上の差別にも不服をいわないのは、いざという時には幹部に任せればよいという信頼感を感じているか ら」(佐々淳行『新しい監督者論』)であると述べている。
何を幹部に任せればよいかというと、佐々氏によれば、警察は権力機構であるため警察活動に対する民衆の風当りは宿命的に厳しく、「殊に、警察事故、或は、違法もしくは不当な警察権の行使に対する民衆の非難攻撃は、無責任なまでに烈し」く「場合によっては全く適法妥当な執行にさえ、感傷的な、或は悪意に みちた攻撃が加えられる」という。
そのため、すべての監督者はそれぞれの地位に応じていつ起るか分らないこの種の紛争に対する自分の態度について日頃から 考えておく必要があり、「警察の一体責任を追及する新聞記者や世論の非難攻撃に対する幹部の答弁は、あくまで一体責任の原則に基いて慎重に行われるべきであって、間違っても部内における責任の所在を云々して、民衆や警察部内に、責任転嫁の遁辞と響く虞れのあるような、不用意な発言は避けるべきであろう。」という。
つまり警察活動(「殊に警察事故、或は、違法もしくは不当な警察権の行使」)に対する「責任を追及する新聞記者や世論の非難攻撃」(批判的な世論)から組織を防衛することが警察幹部の務めであるというのである。
このようなことから、佐々氏が提唱する「危機管理論」における「危機管理広報」で、広報担当者(警察幹部)が、「危機管理広報」の仮想敵としているの は、明らかに民衆の世論であり、防衛を試みるのは警察組織のイメージと警察組織内部の世論(志気)であるといえる。
このことは、「危機管理広報」が、警察 のイメージの危機を管理するという意味であり、「危機管理広報」はCI活動の応用であるということができる。
たしかに警察の好ましいイメージが守られるこ とには、それなりの意味があるのかもしれない。だが、「危機管理広報」によって警察の非違行為がダメージ・コントロール(被害局限)されるという事は、結果的に被害者の主張と世論との間に不一致を生じさせることになり、被害者の自殺等の問題の原因となる可能性がある。
そればかりか、警察職員が証言をしなければ、被害者にすらなれない場合もあり得るのだ。
これに加えて、警察への批判的な世論に対してなされる「危機管理広報」は、一九五一年(昭和二十六)に杉本氏が『警備警察の基本問題』で「悪宣伝に対しては、之を打破する真相発表或は逆宣伝が必要となってくる」と警察による逆宣伝の必要性について述べ、宣伝によって積極的に世論操作することを主張したこ とと一致している。
「危機管理広報」は、警備警察における世論操作の手法である逆宣伝の応用にほかならない。
佐々氏が提唱する「危機管理論」の特徴が「危機管理広報」に良く表れているというのは、「危機管理論」では「危機管理広報」が最終の危機管理になるとい う特徴があるからである。
事件・事故・自然災害などの危機管理が成功した場合はプラス広報、それらの危機管理が失敗した(対処不可能な危機の)場合は必ず マイナス広報に終わる。
このマイナス広報は、ダメージ・コントロール(被害局限)することで、マイナスのイメージをプラスのイメージに変換することができるのである。
このような特徴から「危機管理論」は、人間の頭の中にあるイメージ(想像から生まれた恐怖)に始まり、警察のイメージの危機管理に終わるといえる。
一言で言えば、表象操作につきるということだ。
現在、巷には「危機管理」という語が溢れており、「危機管理」という語を徴表にすれば、佐々氏の提唱する「危機管理論」が日本社会の隅々にまで行き渡っているといえる。
そして佐々氏が主張するように「これまで危機管理のようなことは警察がやってきた」のだとすれば、「危機管理」の社会への浸透は、警察に代わって国民一人一人が「危機管理」を行うことを意味しており、それはすなわち、社会の警察化(国民皆警察)を意味している。
この危機管理の完全を期するためには、不都合な現実を秘密にする努力が、不可避であることは火を見るよりも明らかである。
だが、秘密を完全に守ることが困難であることが、危機管理が必要な理由であり、けっきょく、不都合な現実から自主的に目を反らす自粛が、強制されることになる。
「原始的社会」のタブーは 自粛へと進化したわけである。自粛は、警察化した社会の徴表なのだ。
第二次世界大戦下でひとたび国民皆警察化した日本社会は、戦後、「危機管理論」によって再び皆警察化したのである。
しかし、皆警察化はそれで終わりではない。日本社会は再び人々の一〇〇%のコントロールを目指して皆警察化するのである。