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私が地方にいながら、ゆるふわ起業で月収80万円にするまでのストーリー【episode1「起業するきっかけ」】

1989年1月8日生まれ、山形県山形市出身。

私は、田舎生まれ、田舎育ちのどこにでもいるような女の子。

この話は、そんな私が、好きなことを仕事にして起業をし、地方にいながら数ヶ月で、月収80万円にするまでの物語です。




【高校時代、進路決定まで。】

バレーボール県内トップクラスの高校の、バレー部に入部。3年間ほぼ休みなく部活に励み、髪も3cmくらいの男の子のような短髪で、おしゃれとは無縁の生活をしていました。でも、元々ファッションやおしゃれをすることに興味があったので、部活を引退した瞬間から、おしゃれしたい欲求が爆発することになります。(笑)

(それが、今に繋がっているのかもしれないなー。)


進路を考えるときも、

「美容系のお仕事をしたいな♡

人生、働く時間が大半なら、どうせなら好きなことを仕事にしたい!」

と思うようになりました。


私のない頭で考えると、

美容系の仕事=美容師

といういう方程式になりました。


他にも、メイクアップアーティスト、芸能人の服を選ぶようなスタイリスト、服を作るデザイナーなど、選択肢は浮かびましたが、それらの職業になる方法がわからなかったので、自然と進路の選択肢から弾かれていました。


また、その職業になる方法がわからないというのと、「メイクアップアーティストも、スタイリストも、デザイナーもすごい人がなるもの」と、勝手な思い込みがあったのも、選択肢から外れる要因でした。

(人は、無意識に、「どうやったらなれるかがわからない」だけで、選択肢から外してしまっている。)

(美容師が、すごい人でなくてもなれるというわけではありません。)



「美容師になりたい!」と母親に話すと、猛烈に反対されました。

「公務員になりなさい。」と言われて、「いう通りに公務員になったら、母親が喜んでくれる」と思い、給料が安定しているというだけの理由で、高校3年生のときに公務員の勉強会に申し込み、公務員を目指そうと思いました。



本格的に、進路を決めないといけない時期に、もう1度自分に問いただしてみました。


『人生1度きりだよ。本当にやりたいことはなに?』


と。



「なぜ、私は美容系の仕事がしたいんだろう?」と考えたときに、「美容系の仕事がしたいのではなくて、女性を輝かせる仕事がしたいんだ!」という気持ちに気づきました。

そして、検索をかけまくり、どんな職業があるのか調べることをしました。



そうして辿り着いたのが、

『ウェディングプランナー』という仕事。


女性が誰しも憧れる、花嫁さん。そんな女性が輝く、人生に1度きりの結婚式を作る仕事。


高校時代、私は友達にはとても恵まれていたので、「将来就く仕事は、この友人たちのためになる仕事がしたい!」と思っていました。


だから、

『ウェディングプランナーになって、友達の結婚式を担当することが、私の夢♡』


と、決めました。



両親を説得するために、東北で1番学費の安いブライダル科がある専門学校の資料を持っていき、「なんとしてでも特待生で、学費を免除される形で入学しなさい」と言われたので、必死で勉強をしました。

そして、仙台にあるブライダル科がある専門学校に入学。

(実家のある山形から、1時間かけ電車で通っていました。)





【専門学校卒業後、新卒で就職のために上京。】

専門学校卒業後、勤務地を仙台に希望を出していたのに通らず、上京をすることに。関東圏内に幾つも式場がある、ウェディングゲストハウスに就職をしました。


でも、就職したゲストハウスが、いわゆるブラック企業!

新卒で入社をした私たちは、面接をした会社ではない別の会社に入社させられていたのです・・・!

しかも、入社した会社は、入社1ヶ月で倒産。(チーン)

新しいオーナーに買収をされて、働き方が一変!


尊敬する上司は、次々にリストラをさせられていました。そして、それが私の番になり、残酷にも新卒で入社した会社をリストラし、地元の山形に戻ることになりました。

(今では、悲惨すぎて笑い話ですが。笑 )


地元に帰ってからは、家族が大病を患っていたこともあり(今はものすごく元気なので、ご安心を。)、土日が仕事で夜も遅いウェディングの仕事ではなく、土日休みで早く上がれる職種の面接ばかりを受けていましたが、ことごとく全滅。(泣)

(15社くらい受けたかなー。)


そんな中、たまたま県内のシェア率ナンバーワンの地元の結婚式場の求人を見つけ、軽い気持ちで受けてみることに。

すると、やはり、経験者ということもあり、無事合格。

入社して、すぐに最前線に立たせていただき、プランナーとして何組もの結婚式の担当をさせていただきました。




【入社して2年、突然の転勤。】

今まで本店で最前線としてプランナーをしてきたけど、いきなりの姉妹店への異動が決まりました。

その姉妹店はものすごく田舎にあり、結婚式の組数も、本店の10分の1ほど。



姉妹店に異動になってからが、私の人生のモンモン期の始まりでした。


本店にいる私と同い年のプランナーたちは、上司からちやほやされ、新しいプロジェクトも任され、本当にキラキラして見えました。

それなのに私は、キラキラとは程遠く、田舎の本店よりも古い姉妹店で、地味な仕事をしている。

本店にいるプランナーたちが、羨ましくてしょうがありませんでした。



社長も全体朝礼で、私のいる姉妹店の話は一言もしてくれず、いつも本店の話題ばかりで、その度に、自分の存在が無視されているような、虚しい気持ちになっていました。社内の中で、姉妹店の存在はないような扱われ方をしていたのです。


私は、本店で行われる月に1度の全体朝礼のたびに、

「いいなぁ、あの子達ばっかり新しいプロジェクトを任されていて・・・。」と嫉妬スパイラルにはまっていき、ずっと曇りのようなモンモンする毎日を送っていました。そして、不機嫌な時間がどんどん多くなっていきました。

こんな風に思っている自分がどんどん嫌いになっていき、そして、その想いをひた隠しにしている自分は、もっともっと嫌いになっていきました。



そんな毎日を送っていると、大好きなウェディングの仕事すら嫌になるときがありました、


「私の人生、このままでいいのかな?

結婚を機に寿退社して、仕事辞めれたらいいのになぁ・・・」と、本当に結婚がしたいわけでなく、『仕事が嫌だから結婚したい。』という矛盾した気持ちにもなっていき、

どんどん結婚をしていく友人たちからの焦りも相まって、深い嫉妬スパイラルにはまっていく一方でした。


(嫉妬スパイラルにはまってしまう人と、嫉妬を自分に力に変えることのできる人の2パターンがいると思います。私は、このとき完全に、前者のパターンでした。)



私は、この人生のモンモン期は、23〜25歳の頃。

この約2年間、ずっとどうにもできないモヤモヤと、自分自身が勝手に生み出した嫉妬と、毎日戦っていました。



そんな中、私のことをずっと気にかけてくれていた上司Sさんがいました。



私は、思い切って、SさんにSOSを出しました。


「新郎新婦の前では笑顔でいれるし、素敵な結婚式を作ろうと一生懸命だけど、正直、仕事がつまらないし、全然楽しくありません。

(私も、私がいる姉妹店も)存在自体がないように思えて、一緒に働いているほとんどのスタッフも、惰性で働いているようにしか見えなくて、このままではこの店はダメになってしまいます。

ダメになってしまうのがわかっているのに、何もできない自分に毎日イライラします。本店のプランナーたちが羨ましくて羨ましくて、眩しくて、そんなことを思っている自分が嫌いになります。」とSさんに伝えました。


このとき、初めて自分の本当の気持ちを口に出しました。


するとSさんは、私のSOSを汲み取り、社長に掛け合ってくれ、本店にいて膨大な仕事を抱えいるのに、姉妹店のプロジェクトを立ち上げてくれたのです!


そのプロジェクトを立ち上げるときに、

Sさんが私に言ってくれた言葉があります。

その言葉がなかったら、100%今私はここにいないなと思います。



その私の人生を変えた言葉は、

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