- short story - リリと大きな木
リトアニア郊外の森のなか、リリは広い草原に咲く白い花。
小さなつぼみをいくつか持ち、青々と甘く苦い香りが宿る葉を風に揺らして、楚々とした佇まいで立っている。
静かな午後。とてもとても静かな昼下がり。
耳をすますと、虫の羽音が聞こえる。
人間には感知できないほどの微細なリリたちのような花や植物の香りを、虫は遠くからキャッチして、迷わぬ飛翔で近くにやってくる。
リリがこの草原にやってきたのは、まだ綿毛の頃。
たくさんの兄妹姉妹と一緒に、母のもとにいた頃に、母は幾度も優しく皆に教えてくれた。
「いつか風にのって、それぞれのタイミングで、それぞれの行きたい場所へ、飛んで行きなさい。」
その言葉通りに、風が吹くたびに、準備が整った兄弟姉妹は、ひとりずつ遠くへ飛んで行った。
リリは、なるべく風の強い日を待ち、ある台風の日に風にのって、びゅんびゅん山を抜けて、谷を進み、森のなかの開けた草原をみつけ、降り立った。
そこには、空に向けて広く広く枝を広げ、どっしりと地に根をはった、大きく立派な木が1本立っていた。
綿毛のままに地におりて、気がつくと新芽がでて、太陽に当たるたびに、雨が降るたびに身体がぐんぐん成長して育つなか、リリは自分でみつけたお気に入りの新天地の、日々移り変わる景色の美しさに夢中になった。
季節が変わるたびに、色が変わり、匂いが変わった。
見上げる空も、雲も、同じ瞬間はひとときもなく、目を離せないくらいいつも美しかった。
リリの元に遊びに来るナナホシテントウムシやモンキチョウと世間話をしたり、時々通りかかる狐さんに踏まれないように身体をくねらせたり、草原での暮らしは毎日が新鮮な驚きと発見に溢れていた。
それからリリの心のなかは、自分のつぼみがどんな花を咲かすのか、不安と楽しみが半々だった。
この草原で、リリの一番の関心事は、あの大きな木だった。
鳥たちが彼の枝に止まり、自慢の歌を披露したり、リスが彼の幹にあいた穴にかくれんぼをしたり、風が彼の葉をくすぐったりしているのを見ながら、リリも大きな木に話しかけに行きたかった。
リリは根をはったこの場所から離れられない不自由さを感じていた。
大きな木に話しかけることが、叶わないのなら…「そうだ、歌をうたおう。」
リリは閃いた。
リリは生まれてから今まで、歌ったことがなかった。
はじめて恐る恐る歌ってみると、その声はかぼそく、堂々と人前で歌を披露することなんて、とてもできそうにないと思った。
毎朝目が覚めると近くで美しい歌声で歌う鳥たちがいて、ある朝リリは勇気を出して聞いてみた。
「どうやったら、そんなに美しい声を出すことができるの?」
「僕たちは生まれたときから歌っているからコツといわれてもなぁ…」
鳥たちは、それでもリリのために出来ることはないかと、鳥づてにリリの歌の相談を伝えあっているうちに、渡り鳥のトニーの名があがった。
ちょうど長旅から草原に戻って来たトニーは
「僕なら各地の音楽に触れてきたから、教えてあげられると思う。」と言った。
トニーはリリに、正しい姿勢について、呼吸の仕方、リズム、メロディなど丁寧に根気よく指導した。
リリも毎日練習をこつこつと続けて、身体を楽器のようにするコツを掴み、数ヶ月かけて大きな声で歌えるようになった。
けれどその声は、今まで誰も聴いたことのないような、少しビブラートのかかった個性的な声だった。
リリは自分の歌声を初めて目の当たりにして、この声は果たして美しいのか、自信がなく途方に暮れた。
ある夏の夜、涼しい風に吹かれながら、心地良くリリが思うままに歌を歌っていると、近くの川べりから散歩に通りがかった1匹のカエルが、「くすっ」と笑った。
リリはとても傷ついた気持ちになった。
「私の声は、やっぱりとても変よね。」
しゅんとした気持ちで歌うことを止めると、カエルは言った。
「僕たちは、みんな多少の差こそあれ、同じ声で生まれてきたんだ。それは、皆で合唱をするために。
君の声は確かに僕たちの声とはまるで、まるで違う。
けれど、君がソロパートを歌ってくれたら、僕たちの合唱にもメリハリがつきそうだ!良かったら参加してくれないかな?」
カエルの誘いにのって、リリは少し離れた場所にある川ベりから風にのって流れてくるカエルたちの合唱に合わせて、即興で心のままにメロディをのせた。
ひとりで歌うよりずっと楽しく、自分の声は確かに異質だったけれど、その曲の中でリリはたしかに必要なパートだと感じた。
それから、毎夜カエルたちの合唱に合わせて、色々な歌を歌った。
じょじょに息が合って、草原と川の距離が離れていても心で繋がっているような気持ちになった。
新しい曲のレパートリーが増え、草原と川に流れるその音楽は、森じゅうに響き渡り、そこに暮らすみんなの楽しみになった。
気が付くと、あの大きな木も音に合わせて、葉を揺らして聴いてくれていた。
リリは、根っこが生えたこの場所から動けない不自由さを感じていたけれど、歌を歌うと、目には見えないくらい遠くのだれかとも繋がっていくことを知り、心が弾んだ。
それは魔法のように思えた。
今は遠く離れてしまった、母や兄弟姉妹たちにも、気持ちを歌にのせて届けられるかもしれない、と思った。
ある夜、リリは体の変化を感じた。
内側からむずむずするような感覚があり、ふと気が付くと白いつぼみが膨らんでいた。
満月の夜、ついに花びらが開いた。
そして、開いた花びらが1枚、春の柔らかな風にのって、ひらりひらりと踊るように舞いながら、大きな木に向かって、迷わず飛んで行った。
純白の花びらが、大きな木の幹にくっつくと、リリは大きな木に触れることができた。
リリは生まれてはじめて感じる、深い安堵感と安らぎの感覚のなかで、幸福を知った。
「夢はちゃんと叶うんだ。」
リリは数週間後、太陽の光のもとで花びらを散らして、やがて綿毛が生まれた。
リリの子どものようで、分身のような綿毛たちは、風を待ち、また新しい場所へ旅立つ準備をしている。
リリは、みんなに優しく励ますように、歌を歌い続けた。
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