共産党はいい加減に「総括」したら?
公共事業を悪玉に仕立て上げてきたツケ
公共事業は無駄、道路は無駄と言ってきたのは忘れない
今回の災害で大きな問題になっているのは道路網のダメージが大きすぎるため、避難所へのルートが断たれて孤立したり、支援物資が届けられないという輸送上の問題を抱えている点にあります。
交通インフラを充分整備してこなかったからこのような事態を招いてしまったのですが、それに加担してきたのは「あっせん利得」を前提とした「自民党の利権政治の象徴」「業界との癒着政治の問題」であるかのごとく公共事業は無駄、道路は無駄と口をすっぱくして言ってきた共産党にも責任はあるのですよ。
あっせん利得は問題ですが、公共事業が無駄という理由にはならない。問題を切り分けるということを怠ってきたのも問題ですが、根本的には福祉財源の捻出のためには必ずどこかの予算を削らなければ、財政赤字は拡大してしまうという考えの下、緊縮財政志向によって公共事業を削れと言ってきた主たる原因でしょう。
実際問題としては小泉政権以降予算を削ってきている
おそらく小泉政権が進めたい緊縮財政政策にとっては公共事業の削減は非常に都合がいいから採り入れたんでしょうね。小泉純一郎は公約としても「自民党をぶっ壊す」と言っている手前、共産党の要望も斟酌して自民党の利権政治にメスを入れることで、表向きは自民党の悪習慣を絶つ構造改革にもなったのでしょう。
もちろん共産党としてはあの程度の削減で満足するはずもなく、依然として公共事業の削減を訴えてきたわけでもあります。PB黒字化目標と福祉の充実を訴えるなら、他の予算はとことん切り詰めて行かねばなりませんから。
「小さな政府」に前のめり
「小さな政府」とは新自由主義にとって都合の良い政策
「均衡財政こそが健全」ということを非常に重視するんです。日本共産党という政党は、とりわけ国債発行を原則禁止している財政法第4条への執着が強く、財源は税だけで賄わなければならないというもの凄い強迫観念でもあるんじゃないかと思えてきました。
問題はその後に続く件、「政府の財政難ゆえに、政府支出や減税などの経済政策や公共部門の機能維持ができないという口実があれば、公共部門から市場経済に比重を移す新自由主義政策を実行しやすくなる。」という所。
ここから「新自由主義政策に持って行かれる」んです。
だから新自由主義をやめさせるにはこの流れを止めないといけないんです。
緊縮財政政策と歪んだフェミニストが「小さな政府」志向に突入
そもそも緊縮財政政策そのものが民営化を進めやすい「小さな政府」に誘導するためのもの。
共産党の緊縮財政政策の根本は税財源論とプライマリーバランスの黒字化を目指しているために生じているもので、政府の財政を家計のように見なし、財政赤字は身の丈にあわない贅沢をしており破滅に向かっているという認識でいることです。
フェミニストにとって政府や共同体(縁故主義)がもつ調整機構というのは女性の自由(=徹底した個人主義が前提)を抑圧する家父長的な存在だと見做しているので、これを極力排除したいというのがどうもあるようで、これらが新自由主義を後押ししてしまう要因でもあったりします。
Colaboに肩入れするのも「小さな政府」志向であるがゆえ
本来ならColaboのような事業を行う民間NPOはいらないんですよ。
やっている内容が必要ないという話ではもちろんなく、本来なら「行政の責任の下で行政が直接やるべきこと」だからです。なぜ行政に直接させるのではなく、民間のNPOに任せようとするのですか?
そもそも民間に丸投げさせるのが問題なのです。
それも「小さな政府」の本来の目的になる「民営化論」でしかないわけですよ。公共サービスの中に潜り込んで中抜きしてボロ儲けする竹中平蔵とパソナが代表的なのですが、仁藤夢乃らがやっているのも規模が小さいだけでやることは同じ。だから「プチ竹中」とでも呼んであげますよ、あの辺の「公金チューチュー」筋の人たちを。もちろん竹中平蔵は「公金チューチュー界の王者」でしょうね。
広義には社会主義は「大きな政府」です
にもかかわらず真逆の「小さな政府」に邁進しているわけですから、財政法第4条を遵守し、PB黒字化目標(財政均衡主義)のために「社会主義」をかなぐり捨てたと言ってもいいでしょう。こうなると財政均衡のために民営化やむなしという譲歩を引き出されてしまいそうに思えてきます。先述の通りColaboの肩入れをしている時点で行政が直接やるべきことを削ぎ落として「民営化を肯定」しているのですよ。
民間委託したら中抜きされるのではないかと訝しく思うのも無理もない話なのに、パソナには利権問題で追及するのに、Colaboには疑わないのは一貫性がないと思いますけど。竹中平蔵も仁藤夢乃も規模が違うだけでやってることは大して変わりません。私は公金チューチューの問題は竹中平蔵にも向けますから。というより竹中平蔵は割と追及があるのに、Colaboへのマークは薄いからそちらにリソースを割きがちなのはあるけれど。
国の借金問題という間違いを改めない不誠実
問題の大元はここにある
MMTという理論が入ってきたことで「国の借金」という概念は問題にはならなくなった。むしろ国の借金を問題にして緊縮財政政策を続けることこそ却ってあちこち弊害が出てくることも分かってきた。これを無視して緊縮財政に固執することには悪意を感じます。
ことの問題は共産党にMMTに対する強烈なアレルギーがある点、もう藤巻健史級のアレルギー反応をするんですよ。というか藤巻化してます。
あの、つい最近繰り上げ当選した藤巻健史って日本維新の会の人で、一切の政府介入は社会主義であり、社会主義は競争力がなく淘汰されることを約束されているので許さないと言い、また政府がまったく介入しないレッセフェールまで肯定するようなガチガチの新自由主義者ですよ?
その藤巻健史と同じ方向を向いていること自体がおかしいです。
藤巻健史と違うのは共産党は「マルクス一本槍の教条主義」にあるため他の学者の理論には耳を傾けないという所から生じているのではないでしょうか。実際MMTの源流にあるケインズの理論も全面的に否定してますしね。
他の学者の理論は受け付けないという性格が幸いしたのか、ブキャナンという毒饅頭も喰らわなかったのは救いでしょうが、あれ喰らうと「支持率に怯えて国民を甘やかすな」という強硬な緊縮財政政策による苛政へと邁進してしまいますから。
立憲民主党の米山隆一は熱心なブキャナン信者だと思いますよ、だから「国民を甘やかすな」としゃあしゃあと地方切り捨ての棄民政策まで言ってのけるわけで。そこまで厚かましくも恥知らずになるのは人としてお終いです。
財政法第4条の但し書きすら無視
財政法第4条の但し書きには例外として「建設国債」は認めているのです。
建設国債を発行して災害対策の公共事業はできるはずです。そもそも共産党は国債=借金=身の丈に合わない不健全なものと国民生活と同じ視点で財政を語ることをやめません。歳入が少ないなら少ないなりに質素清貧な財政であるべきということ。国民も政府も倹約に努めるべきと。
しかし、財政規律を理由に国民のいのちとくらしを守るための災害対策まで怠らせてきたというのはやはり棄民政策であり、不誠実であると言わざるを得ません。
今からでもいいので考え直して、政策を改めるべきです。
私もMMTを少しなり知った上で考え方を改めました。
財政赤字、国の借金は問題にならない。
制約になるのは人手や材料などの供給力です。
ならば「必要なこと」は供給力が許容する限り「全部やればいい」のです。
財源を根拠にできない理由を探さない!