河合隼雄を学ぶ・25(山中康裕著)「少年期の心」
山中康裕さんは、京都大学で河合隼雄にユング派の教育分析を受けていらっしゃって、河合隼雄を恩師と仰ぐ精神科医である。
この本では、主に遊戯療法や箱庭療法にてクライアントである少年・少女たちと関わった記録であり、子どもに向ける真剣かつ温かなまなざしが印象的である。
山中さんは、神経症児たちを「逸脱」させ、「異常」とするのは、その子自身ではなく、もしかしたら社会のほうの問題なのではないか、と冒頭で疑問を投げかける。その子が置かれている「場」の病理のしわよせが、子どもにのしかかっている可能性もある、と。
そういう観点で見ると、その子をそういった社会に適応できるように「治す」というのは誤りであって、社会の犠牲となったこの子どもたちこそ、次の時代を考えていくひとつの大きな指針を与えてくれる、貴重な「生き証人」なのだと、山中さんは訴えている。
精神科医の立場から見ると、「犠牲の山羊」となった神経症の子どもが、実はその家庭の本質的な問題解決の鍵を握っているという、大きなパラドックスに気づかされることが多いのだという。
また、山中さんは、精神療法家というものは、いわば、傷つき悩むクライアントにとっての、最後の「自由」を守る空間と時間を保障する人間の一人なのだ、という。クライエントと向き合うセラピーの時間を、「彼らの自由を守る空間と時間の保障」とするこの考え方は、山中さんの精神科医としてのスタンスをよく表わしていると感じる。家庭でも、学校でも、誰も自分の言うことに真正面から取り合ってくれない、抑えつけられている彼らに、のびのびと自己表現をする場を与えているのである。やがて生き生きと動き始めたときの子どもたちが放つ言葉は、非常に深く、鋭い。絵を描いてもらったりしても、まるで現実の状況をあらじめ察知できるのではないかというほど、的確で示唆に富んだ絵を描くことがある。これは、子どもが神経症という、ある意味では否定的なものでありながら、ある意味では人間がとりうるひとつの「知恵」によって、新しい状況を切り拓くための仕事をしようとするとき、一時的に、天がその子どもに与える創造性なのだと、山中さんはいう。
また、山中さんと学校の先生たちとの関わりのエピソードの中で、とても印象的な言葉があった。
「1人の障碍児を捨てて、他の39人を守る」というのは、結局、その39人のひとり一人も、本当には大切にしていないのだ、ということに先生が気づいていくという話である。
障碍児がいるクラスの先生で、内心は迷惑に思いながらも、表面上は何も言わず、波風を立てないように、その子をひたすら「お客様扱い」するような先生よりも、「私にはとてもこの子に責任が持てません」と正直に言い切るタイプの先生のほうが、実はその子について本当は悩み、苦しみ、どうしたらいいかと考えあぐねていることが多いという。子どもに正直に向き合おうとする先生方が、それぞれのやり方で道を切り開くなかで、「その子ひとりを大切にすることが、実は40人全員のひとり一人を大切にすることに繋がっていくのだ」と気づかれたのだという。
目の前のひとりを真剣に愛せないで、世界を愛することができるのか。
何かそのような大きな命題を投げかけられた気がした。
また、成績優秀な優等生が不登校になるケースでは、知的な両親、経済的・社会的地位が高い両親、母親が並外れて美人であるなどの場合、その子どもは「感情的・情緒的安定の獲得」「自我の成熟」を成し遂げる前に社会に出され、そのひずみが不登校という形で表れてくることがあるという。
これは、そういた両親のもとでは、知的な能力や外面上優れていることに価値基準が置かれ、弱い者への配慮や他者との協調、つまり人としての触れ合いが見落とされがちになるからだという。
山中さんは、不登校や引きこもりを、子どもたちが本来、自己にとって必要な内的成熟をもたらすために必然的なものである、と考えている。
成績や教育一辺倒で、そこにしか価値基準が置かれない子どもというのは、想像するだに気の毒である。子どもの存在そのものを肯定して受け入れることが、子どもの「感情的・情緒的安定」につながり、ゆくゆく厳しい社会で生き抜いていく力になるのだと、私も思う。
子どもの存在そのものを肯定して受け入れるには、親のほうがまず、自我が成熟していること、感情的・情緒的な安定を獲得していることが必要である。助け合って、支え合って、親がまず、ひとりぼっちにならないようにと祈る。
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