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なぜアドベンチャーレースを追うことになったのか

(ちょっと長くなります)

今夜、初代アドベンチャーレーサーたちの集いのようなものが開催され、アドベンチャーレースに参加するきっかけ、というような話になったので、ふと自身のことを思い出して、記しておこうと思います。

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最初はモロッコ政府観光局から「エコ・チャレンジの取材をしてみませんか?」というご連絡いただいたのことがきっかけでした。

観光局の方はJALの機内誌で14ページほど掲載した、モロッコでサンドボードとスノーボードの記事を読み、

「この人だったら取材できるかも?」と思ったようです。

ご連絡をいただき、エコ・チャレンジと聞いてもピンとこなくて、ビデオをいただいて自宅に帰って観たところ、映像にはワニは出てくるわ、砂漠の中を走るわ、昼間だけでなく夜もレースは続き、これまで自分がいた雪の世界とあまりにかけ離れていたので、即お断りすることに。

とその前に、当時一緒に仕事をすることが多かった滝口保さん(以下、TAKIさん)というカメラマンに話したところ

「実は僕、そのレースの撮影に行きたかったんです」

と眼をキラキラさせて私に話すのです。

私はお断りするつもりだったので、「TAKIさん、どうぞ!」と譲ったのですが、何か事情があってTAKIさんも行かれず…そんな矢先、栄養士の友人(その後、彼女は有森裕子さんや高橋尚子さんの専属栄養士になったようです)と話をしたところ、

「私の知り合いに、似たようなレースに出ようとしている人がいる」

それが白戸太朗さんでした。

ちょうどサロモンクロスアドベンチャー長野大会の直前でした。

たしか新橋の中華屋?だったと思うのですが、

TAKIさんを太朗さんに引き合わせ、話が盛り上がり「良かった!」と思っていたところ、「やっぱりライターも必要だよね〜」と二人に笑顔を向けられ、舞台が長野の北信エリアということもあって渋々承諾。

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(追記)

このタイミングだったか…当時のダイビングワールドの編集長から

「伊豆でも似たようなレースがあるみたい。今年はプレらしいけど…」

と話されていたことを思い出しました。その後、この方と一緒に「ADVENTURE RACE」という雑誌を作ることになるのです。

ちなみに、この雑誌の誕生の前に、山と溪谷社のOUTDOORという雑誌の仕事を時々させていただいていた私は、(レースの取材では掲載媒体の申請が必要だったこともあり)取材するためにアドベンチャーレースの雑誌の立ち上げを目論み、白戸太朗さんや田中正人さんにご相談して、企画を編集部へ。当時のOUTDOORの編集長の林さんが手を尽くされ、最初はoutdoorの付録に、その後、雑誌としてドビーさんこと山本晃一さんが長となり、「adventure sports magazine」が立ち上がったのです。興味は持ってくれてはいたものの、まだレース会場に来られたことのなかったドビーさんには大変な作業だったと思います。

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媒体がないと取材に入れないことから、その頃出入りしていた光文社(こちらはGainerと言うメンズ雑誌)や講談社でどこか適当な雑誌はないかと探したところ、FRIFAYが快諾。生まれて初めてのアドベンチャーレースはFRIFAYのプレスではいることになったのです。

アドベンチャーレースのことなどまったく知らない私は、誰からか、

「アドベンチャーレースのことを知るなら山田周生という人物を探すと良いよ」

と言われ、レース後、いかにもアドベンチャーレースを追いかけそうな風貌の人に声をかけると、その人はホーボージュンさん。

彼が指を差して

「あっちにいるのが周生さん」

と教えてもらったことを思い出します。

その後はホーボージュンさんとのやりとりの方が多かったのですが…翌年の岐阜のレースは、たぶん一緒に組んでいたジャーナリストの笹沼さんが結婚された?される?こともあり、山田周生さんからご連絡をいただき、サロモンのオフィシャルとして組むことになったのです。

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最初のきっかけはこんな感じでしょうか。

思い出しながら書いてみると、

いろんな人たちに繋いでもらって今があるんですね。

レースをおっていると

いろんなハプニングはありましたが、ここまで。

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当時私自身カメラマンではなかったので、

写真が手元にあまりないのです…