痛みを語るということ|映画『トークバック』の感想ノートから①
ほしを汲む、という言葉が自分の中から出て、スッキリしている。
ずっと言葉にならなかった声を外に出せるって、良いもんだなぁ。
理想はこんなに長い間ため込むことなく、都度、良きタイミングでサクサクと外に出していきたいものだが、ま、それはこれから練習するとして。
人生は味わうべき神秘なのだ(byキルケゴール)
私は長男が生まれてから、ずっとノートに、ペンだけでイラスト日記のようなものを書いていた(4歳の終わりくらいで、あまりのパワフルさにイラスト描いてる場合じゃない、と自然消滅)
(それでも結構な量がある)
最初は初めての子育てで出会うこと全てを、書き(描き)留めたいと思っていた。そのうち、子育てをきっかけに出てきた、今まで飲み込んできた想いを書くことも増えてきた。
今見返すと、それも『ほしを汲む』行為だったのだと思う。
当時の自分なりにアウトプットして、日記という形で置いておいたおかげで、今、結構良いこと書いてあるなと気づけた。未熟でもその都度どっかに出すこと、後から見返せるようにアーカイブしておくことが大事なんだな。
2014年、映画「トークバック 沈黙を破る女たち」を観ての感想を、ここで『ほしを汲む』という旗のもとに再編集して、公開してみる。
そもそもの映画との出会い
映画「トークバック 沈黙を破る女たち」は、坂上香監督によるドキュメンタリー。
私とこの映画との出会いは、人からのオススメであった。
オススメした本人は忙しくて観られないのに、素直な私は(いつもの如く)何も考えずに観に行き、鑑賞後のワークショップ、坂上監督のトークイベントまで参加して、すごいインプットを得て帰ってきたというオチ。
たまたまがたまたま、良い機会になっただけという話である。
せっかく誘ってもらったんだから行かなきゃ、とか、何か良いことを得て帰らなきゃ、とか余計な考えが混ざると、私はそれに縛られて疲れてしまう。
(逆にこちらから誘って、相手も都合で行かない選択肢もあるのに「行けないごめん」って謝られるのも、すごく疲れる)
オススメしたりされたりっていうのは、適当に限る。
映画「トークバック」は何を描いた作品か
ざっくりとまとめると、米サンフランシスコで元受刑者とHIV / AIDS陽性者が、『自分たちの人生』を芝居にした舞台が上映される。
この映画は、その舞台の様子と、出演者8人へのインタビューで構成されている。
私はこのフィーフィーっていう女性のキャラクターが、大好き。
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始まりは、刑務所で受刑者の更生を支援する医師エディが、パフォーマーであるローデッサという女性に依頼をしたことから。
「彼女たちの《言語化》に力を貸してくれないか?」
それを受け、ローデッサはもうひとりの言語化の専門家、言語療法士とともに受刑者とワークショップを何度も重ね、舞台を作り上げていく。
(ワークショップの様子は、こちらの製作ノートに詳しい)
ここに登場する受刑者は、皆女性である。
彼女たちはワークショップを通じて、自分自身と、自分の過去と向き合う。
彼女たちの向き合う「過去」とはどのようなものなのか。
そこで語られる体験は、壮絶で凄惨だ。
薬物、窃盗、売春、暴力、虐待、DV、育児放棄、レイプ、エイズ(HIV / AIDS)、貧困、偏見、差別。
彼女たちは困難な状況の中で、数えきれない犯罪に手を染めて生きてきた。
これは特殊な環境の、特殊な女性たちの話なのか
これは、今ここにいる自分から、遠く隔たった世界での話なのだろうか。
モリー・バング著『絵には何が描かれているのか』にあったように、確かに私たち人間は、物事を現実の延長上にあるものとして捉える習性である(=現実とかけ離れたことを頑張って理解する性質ではない)。
だとしても、私は表層にとらわれることなく、どうにかしてその根っこを見つめたいと思う。すごく大事なことがあるから。
こんな大変なことになってしまう前に、どうして誰にも相談しなかったの?
どうしてウソをついたの?
なぜ、ひとりで抱え込んでしまったの?
なぜ、そんな安易に薬に手を出してしまったの?
なぜ、体を売ってしまうの?しかも、ものすごく安価で…
こうして書き出していたら、あのイベントを思い出したな。
それで、上記のどうして、なぜ、の答えは私、ここにあると思う。
萩尾望都『残酷な神が支配する』!
なぜ彼女(彼)たちは沈黙してしまうのか
『残酷な神が支配する』の主人公ジェルミも、母親の再婚相手からそれはそれは理不尽な要求をされるのだが、愛する母親のために、口をつぐんで地獄の日々を送る。そこに、家族になったのだからうまくやろう、という義理の兄の言葉もかぶせられる。
そう、家族が、親族が、町が、地域が、社会が…どこにも出口の無い『環』として均衡を保っているのだとしたら、不当な力に対して女たち=少女たち、力のない子どもたちは沈黙せざるを得ない。
この、『どこにも出口の無い環』については後述する。
ワークショップで参加者は、ひとりひとり、自分の話をしていく。
ローデッサから、毅然とした声が飛ぶ。
「あなたの《感情》について話しなさい!」
だがそう言われても、話せるのは当時の《状況》ばかり。
何を感じていたのかがどうしても話せないのは、それをどこかに追いやって、あるいは感じないようにしてきたから。
生き抜いていくために。
感情を抑えることは、自分をヒリヒリした思いから救う。
傷つかないで済むというのは、とても嬉しいことだ。
だが、感じることを放棄するというのは、生き延びるためのサバイバルでもあるが、それだけではない、傷つくことから楽な方に逃げる、ということでもあるなと今思う。楽はクセになるから。
どこにも出口のない『環』
長くなったので、二つに分ける。
つづく。
ありがとうございます!自分も楽しく、見る人も楽しませる、よい絵を描く糧にさせていただきます!