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紙がない
朝、起きて鼻がむず痒い。ベッドの枕元を手で探ると、いつもそこにあるはずのティッシュボックスがない。
くしゃみが出て、飛び出た鼻水を手で拭いとる。洗面所で手を洗い、ペーパータオルを引き出そうとすると空っぽだった。
トイレに行き、排便を済ませる。もしかしてと思ったら、トイレットペーパーの芯さえない。
ウォッシュレットを強にして、お尻を小刻みに動かしてこれでもかと洗い、尻を振った。パンツがうっすら濡れたのは気のせいにしておく。
台所のキッチンペーパーも、居間にあるはずのカレンダーも、玄関の郵便受けの新聞も。
電話の脇のメモ帳も、気に入っていたパルプフィクションのポスターもない。
クイックルワイパーが裸にされていた。
本気を感じた。今、我が家には紙がない。
テーブルの上には、あの紙もなくなっていた。
奈津子らしい。
便利な家電は全てある。2人で話し合って購入したアンティークの家具も全てある。見てはいないが多分、奮発して購入した結婚指輪も彼女の鏡台に並んでいるだろう。
ただ、我が家にはありとあらゆる紙がない。
冷蔵庫のホワイトボードには、奈津子のメッセージがあった。
こういうことだぞ。 旧姓 清野奈津子
最後の最後まで奈津子は、とことんやり尽くし、隙がない。
人はこれほどまでに計画的で、周到に整理されたら、ほんの少し痛快なことを知る。
ああ、俺は奈津子が好きだったんだなあと思う。そして、奈津子を完璧に失ったのだ。
印刷会社に勤める奈津子は、文字を紙に落とし込むことを、刻むと表現した。
言葉が紙に着地して馴染んでいく様が好きなの。と話した。
紙は言葉も風景も描写も全てを受け入れるのよ。いつだって手を広げているわ。奈津子が紙を語る時、それは奈津子自身のことを話しているのではないか?と錯覚した。
奈津子の人当たりの良さとか包容力とか、手際の良さに甘えすぎていた。
奈津子がいつしかくたびれて、湿り気を帯びて、広げていた手で自分自身を包んでいくようになったことに、俺はどこまでも無頓着だったし、よそ見ばかりしていた。
だから、今、我が家には紙がないのだ。
涙は出ない。拭き取るものも、吸収させるものもない。鼻水と排便で学んだ。出さずに堪えられるなら、それに越したことはない。
べとりとまとわりつく、自分の身から出ていながら汚物と思うようなものを、紙が間にあることで、うまく対処していたんだと気づいた。
奈津子は俺にとって紙のような女だった。
いつでもそこにいて、世間と俺の間に生まれる軋轢を緩衝し、拭い取ってはしれっとしていたのだ。
紙切れ一枚で家族になり、紙切れ一枚で他人になった女は、かけがえのない女だったのだ。
こういうことだな。思い至る。不在が血液にまで浸透し、身体の中を駆け巡る。
まずは、紙を買いに行こう。玄関の鍵置き場に、一枚紙マスクが置いてある。
奈津子、勘弁してくれよ。
涙は全部、着ていたTシャツの裾に染み込ませた。
(1191字)
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