紙の話
小学2年生の頃、遠足で工場見学に行った。
お菓子の明治の大きな工場で、カールやアポロチョコの製造工程を眺めた。
何かが出来上がる過程を見ると、見方が変わることがある。
カールが生み出される瞬間を今も思い出すということは、私にとってそれが興味深かったということだ。
星野源さんに、喜劇という歌がある。私はこれまでさほど気に留めて聴いてはいなかった。あまり引っ掛からなかった。例えば、星野源さんならアイデアとか化物とかのようなインパクトが私には残らなかった。
喜劇という歌が生まれた背景をエッセイで知った。それから、私は喜劇を聴くときに前よりその歌詞やリズムに心を傾けている自分に気づいた。生まれた理由は、私と喜劇の仲を取り持つようになった。
知るということの力を感じる。
秋ピリカグランプリに、紙というお題で書いた創作である。
今更何を?と思う人もいるだろうが、この創作の出来上がるまでを書いておきたいと思う。
私のように、出来上がったものより、道のりに愛しさを感じる人がいるかもしれない。という
ひとりよがりである。
紙。
最初に頭に浮かんだのは、飴の包み紙だった。
孫と祖母の絶対的愛情を保証されていると思われがちな関係性の中で、当たり前ではないことを書きたい。と思って書き始めた。
思うように好意を受け入れられないという、はじまり。関係性に甘えずに対峙するということを紙を挟んで表現したいと考えた。
バツをつけてからマルに転じるというよりは、
サンカクで折り合いをつけるような、そんな話を書きたかった。
元々、白黒はっきりのような明確なものよりも
混濁していて如何様にも受け取れるものに魅力を感じる。
書き始めても着地しなかった。1200文字の制約の中に、書きたいことをうまくまとめることができない。
書かなくていいことが、増えていく。
大事なことを見失い、拠り所を失うと途端に口数が多くなる。
減らせば減らしたで、薄っぺらい。
まさに紙の迷宮で迷子である。
そんな中で仕事で運転中に、頭の中にこの物語の主人公が現れる。すでに浮かんだそのときには、清野だった。その頃海のはじまりというドラマを観ていて、ネーミングは津野君に若干引っ張られてもいる。
家中にある紙が全て片付けられた男。
立ち尽くして、呆然とする様子はなく
ダイニングに座り、ただ喪失を噛み締めてうっすら笑う男が見えた。
どうして、紙がないのか。
彼が、本当に無くしたものは何か。
見えた男から、私は想像を膨らませる。
紙がなかったら、どう振る舞うのかは、自分自身の今までも生かされている。
どこがどうとは言わないが、清野のだらしなさや、無闇に慌てない順応性は、自分自身を反映している。
清野は、これまでの自分が選んだ生き方が、この異常な環境を生み出したことを気づいている。
奈津子というパートナーに対して、自分がしてきたことがもたらしたことだと知っている。
ここにこうしてあってほしい。と望まれたいろいろを知りながら、準備はしなかった。
相手の都合や感情に向き合うことをおろそかにしていたのだろう。
それを不足だと感じても補ってくれる存在だと甘えていたのだろう。
清野は、ひどい男ではない。優しいという種類が幾千通りあるとして、その中の950番目の品種にあたる優しさは携えていたかもしれない。
干渉せず、穏やかに、ただ平熱のような。
ある点では、優秀でもあったかもしれない。
外の世界ではそれなりに認められて、賞賛を受けていたかもしれない。
人付き合いに不器用でも、それを許されていたかもしれない。
ただ、それも奈津子がいて成立していたことだ。
周囲の理解や許容が、自らの努力だけでもたらされたものではないことを、紙の喪失は彼に突きつける。
取り戻すことのできないもの。
金で揃えることはできない、ドラッグストアには陳列していない、柔らかでしなやかな奈津子。
汎用性が高いと勘違いしていたかもしれない。
いくつもの顔を使い分けることも厭わないと思っていたかもしれない。
いつからか社会と自分の間での彼女の立ち振る舞いを、便利にも感じていただろう。
便利になりたい女などいない。
いつだって特別になりたいことをそんな風に取り違えられていることを、なあなあにはできない奈津子を、私はとても潔く好きだと思う。
家中にある夥しい数の紙製品を片付けて、奈津子は気づく。
私の配慮の数。
彼の当たり前の数。
困ればいい。思い知ればいい。泣けばいい。
そう思いながら笑ってしまう。
これまでどれほど愛していたかが明るみになり笑ってしまう。
そして、玄関を出るときに、振り返りハッと気づく。
アレルギー体質の清野が、この花粉の舞う外の世界に、無防備に飛び出す様を想像して、やれやれと思う。
鼻水は手でぬぐうだろう。
お尻はお湯で洗うだろう。
涙は洋服の裾で拭えばいい。
ただ、外の世界の清野は、どこまでもかっこよくいてほしい。
全く、私はどこまでも便利な女だよ。
カバンから取り出したマスクを置く。
汎用性はない。マスクはマスク以外の働きをするのは難しい紙だ。
最後に一つだけ。
大好きだったし、これからだって大好きだ。
それでももう二度と戻らない。
そう思って玄関を閉める。
足取りは軽やかだ。涙も出ない。しばらく紙にも困らない。車の後ろに詰め込まれた様々な紙に、自分の様々な執着を拭い取ってもらった気になる。
奈津子は、幸せになるしかないのだ。
という脳内に浮かぶ情景をアウトプットしました。
書きたいことは、喪失と再生しかないのだ。
先日、ランニング中にそれに気づいて、しっくりしました。
結局、そこに行き着くものをきっとこれからも書いていくのだと思います。