1回、キスしてもらえませんか?(5話)
5話 山城課長の場合
これまでのお話
山城さんと居酒屋に来た。
どちらも独身で山城さんは最中の2歳上だ。
2人で飲むのは久しぶりであったが、随分と気楽になった。
山城さんは上司でもあるが、気の合う先輩だった。
まだ入職したばかりの頃に、同じ課で働き巡り巡って、今の生活支援課にいる。
割とシビアでヘビーな仕事の内容に、へこたれそうになることもある。
山城さんは、淡々としていて感情の起伏をほとんど見せない。
ただ、毛量でストレスをアピールしていた。
昔、2人で飲みにいくと冷やかされたが、今はそれはない。
「俺の髪に感謝しろよ」と山城さんは言う。
「俺に恋が似合わないおかげだぞ」と恩着せがましい。
「私がサハラ砂漠並みに干上がってるからですよ」
「私の乾燥にも乾杯してくださいよ」と生ビールを突き出す。
「自虐とかマジ、引くんで」としらけた顔で言う後輩もおらず気楽だ。
「本当のことを虐げだと指摘してくるお前らはいったい全体何様だ」と口には出さずに笑うと胃もたれがする年頃だ。
「山城さん、キスしたことありますか?」最中は唐突に質問した。
「えっ、何、ドッキリ?嫌がらせ?」と、店内を見回す山城さん。
「違います。私、したことないんです。キス」となるべく卑屈にならないようにはっきりしゃべる。
「キスはしたことある。その先もある」
「結婚と出産と離婚はまだ」と山城さんは聞いていないことを沢山教えてくれた。
「気前がいいなあ」と感心した最中は、勢いにのることにした。
「キスはいつ、どなたと?」
「はじめては18歳の時に当時の彼女です」
山城さんは記憶を手繰り寄せて、急に丁寧な口調になった。
「そうなんだあ。いいなあ」と最中は言った。
「いいでしょう」と山城さんは自慢した。
「やっぱりいいものですか?」と最中が詰め寄ると
「いいものですよ。少なくとも俺は、ポッとなってグッときましたね」
山城さんは、生ビールを飲み干して笑っている。
「山城さん、私のこと馬鹿にしたり気持ち悪がったりしないんですね」と最中は言った。
「は?なんで?」
山城さんは心の底から不思議そうで、それだけで自分が山城さんを信頼している理由が浮き上がるようだった。
「みんなが普通にしていることを経験していないと、なんだかね、ものすごく悪いような恥ずかしいような、そんな気持ちになります」
「足りないんだな、かけてるんだなって、自分が価値の低いものに思えて…」
そこまで、一息に話す私を「瀬戸」と山城さんが遮った。
「足りていて満ちている人って誰だよ」と山城さんが聞いた。
「えっ、木嶋先輩とか」
咄嗟に出たのは尊敬する人の名前だった。
「木嶋?木嶋はそれは魅力的だよな。好きな人と家庭を持ってさ、海都みたいな人生何周目かわからない落ち着いた子供に恵まれて。
仕事もできるしな。だけど、木嶋には木嶋の不足が必ずあるんだよ」
「あいつは本当にやりたかった仕事は、当時の上司に嫌われて任せてもらえなかったし」
「海都の産休前には、散々嫌味言われたり意地悪されたり」
「役所でのびのびイキイキなんて働いてなんかいないし、いつでも必死だし、だけどさ、瀬戸達みたいな可愛い後輩には、道を広げてやりたいって上に意見して嫌われてさ、あいつはあいつなりに不足も乾きもあるよ」
「瀬戸がキスしたことないから、瀬戸を見る目が変わることなんかあるわけないだろ」
「俺から見たらだよ、木嶋も瀬戸もまんまるじゃないから、だから一緒に働いていて楽しいし頼りにしてるんじゃないか。みくびるなよ。俺も不足しかない」
山城さんが頼んだ生ビールがぬるくならないか心配になるほどに、山城さんは真剣で、そして
どこまでも誠実だった。
「ありがとうございます」
最中はちゃんと目を見て言った。
「どういたしまして」と山城さんはビールを飲んで、枝豆を食べた。
「で、ですね、そういうことであれば、私と1回キスしてもらえませんかね?」
と最中は、小さな声で提案した。好景気に乗る戦法に、自分が日本人だとしみじみ感じ入る。
「えっ、俺と?なんでよ!しなくてもいいのよ、全然、何、それ!」
山城さんは、狼狽えている。
「まあ、そうですよね、それはもうわかりました。1回どんなんだかしてみたいんですよー。だめですか?セクハラですか?どうにかなりませんか?」
息継ぎなしで一気に責めた。
「1回だけでいいってなあ。なんか、逆に失礼。遊ばれてる感じ。俺、もう42なのに。なんかそんな都合の良い男みたいの、ちょっとやだ。俺はさ、大事にされたいの、わかる?瀬戸?瀬戸にわかるかなあ。」
山城さんは不貞腐れていた。
「だいたい瀬戸はさ、俺のこと好きじゃないでしょうよ」
「いやいやいやいや、好きに決まってますよ。山城さんが若い時から、素敵な人だと思ってますって」
「えー、絶対いやだあ。なんか焦ってるし。
どのあたりが? 」
山城さんが欲しがっている。そしてなぜか可愛らしく見える。
いつもあんな淡々と、全てを穏便に済ませる山城さんが、私を、ぐいぐいと詰めてきている。
「まず、顔!その決して整ってはいないけど、なんか気のおけない脇役で恋の対象外の安全牌の顔!」
「あと、頭。仕事頑張ってらっしゃるんだなあって、一目でわかる。失いいくものの哀愁にきゅんです!中身も回転早いし、あしらい上手だし」
最中はアルコールで回転数の鈍る脳を奮い立たせる。キスができるかできないか、今、瀬戸の瀬戸際。
「顔と頭を褒められて、こんな響かないことある?お前マジで教育とかに絶対携わるなよ。意欲を削がせたらかなりの上級者だぞ」
山城さんは、私の全力の殺し文句に、恋心を殺されたと嘆く。
「瀬戸。必死になればなるほど遠ざかるぞ。正直に口に出せば出すほど見失うんだよ。木嶋のやりたい仕事と一緒だ。夢とか目標とかな、陽の当たるとこに出すと枯れるんだよ。なんとなくわかるだろ」
木嶋先輩の真摯を、打ち砕かれてきた会議室を思う。
なんだよ、仕事もキスもたいして変わらないのか。
「瀬戸、あんまり早まるな。機は熟すまで待てだぞ」
山城さんは、ちょっといい事言ったみたいな顔をして、ジョッキを空にした。
40にして機は訪れず。まだ私は熟していないのか。
ただ、私は山城さんとの関係はすでに円熟だと察する。
熟す前にするのが、キスというものか。とほんのり気づいている。
山城さんの薄い頭頂部が愛しいと思うほどに、
私の経験値の薄さをも山城さんが愛しいと感じているであろうほどに、
私達は熟してしまったのだ。
「ジンジャーハイボールもらえますか!」
私達の不足。私達の充足。
アルコールぐらいしか埋めることも薄めることもできない。
「瀬戸、明日もあるんだぞ。あっ、俺日本酒で」
明日のことは明日。居酒屋とはそういう場所でしかない。