仁義なき夜勤
今日、私は夜勤です。
みんなが寝ている時間に働くということが、1週間のうちに1~2回訪れる生活を20年以上続けています。子供が小さい時もしていました。
夜、寝ついた子供の布団から這い出たこともありました。
今の職場になってからは、夕方出勤し、翌日のお昼ごはんの前に帰宅するようになりました。
夜勤は、人間性が問われることばかりです。
夜勤は、物語が紡がれがちです。それもこれも、人間性がむき出しになるからです。
自分の心が波立つと、夜の空気を振動させます。
自分の不安、不満、心配、焦り、やりようのない怒り。
夜の空気はそれを上手に薄めてみんなに配るのが上手です。
自分の混乱が夜の仕事を増やし、自分を嫌いにさせた夜が数え切れません。
些細な用事を繰り返し、ただ職員を呼ぶことが目的の人。
何度説明しても妄想に取りつかれて、つじつまの合わない話を繰り返し、不安定な足取りでどこかへ向かおうとする人。
ご飯を食べていないと繰り返し、暴れたり奇声を上げる人。
1時間のうちに何回もトイレに行きたいという人。
夜だから、休みましょう。
急に歩いたら危ないですよ。夜で、何も見えないし今は田植えの時期ではありません。
さっきもおトイレに行きましたよ。大丈夫、おむつが当たっていますよ。
ご飯は食べましたよ。朝まで時間があるから少し休みましょう。
最初は、優しく丁寧に説明していた声色が、同じことを繰り返しているうちに変化していくのが自分でもわかります。口調が強くなり、お布団をかける動作が乱雑になります。
朝、大量のおむつをつめこんだゴミ袋を台車に乗せて捨てに行きます。重たいその袋を、外のゴミ捨て場におきに行くとき、冷たい空気に包まれます。
少し白んだ空を見上げて、朝が来ることを感じます。
ああ、やっと夜が明けるなあ。ああ、地震も不審者もこなくてよかった。
ああ、誰も死ななかった。転ばなかった。 ああ、今日も無事に朝が来た。
そう思います。いつだって、何年繰り返しても、朝が来る気配に心底安堵します。
ささくれていた心は、徐々にチューニングされます。朝の力は偉大です。
朝が来ると、安心するのは私だけではありません。一緒に夜を過ごしたお年寄りの心も平穏を取り戻します。
夜、あんなにも心配し、取りつかれていた妄想も尿意も空腹もどこかへ溶けるように消えていきます。
いつものように挨拶を交わし、穏やかに会話を交わすとき、キツネにつままれたような気持ちになります。
全員にドッキリを仕掛けられていて、カメラに一部始終を取られていたら、
私はくびかも知れないなと思います。
もちろん、虐待や暴力を振るうなどといった話ではありませんが、失礼は多々あったという自覚があります。
最近、夜勤の時に自分の心が以前ほど波立たないことに気づきました。
今更か、どれだけ時間がかかるんだとお叱りを受けることを承知で告白しています。
自分の感情を棚上げすることにしたのです。
私の気持ち?そんなん知らんがなみたいな気持ちです。(ウソ関西弁見逃してください)
目の前にいる人だけをぎゅっと見ます。
おしっこしたいだけしたらいいね。
ご飯食べていないなら一緒にお茶でもしようよ。
田植えに行きたいのか。とりあえず起きて窓の外見ようか。雪で田んぼ見えないね。
用事がないけど会いたかったんだよね。大丈夫いるよ。
自分の気持ちを押し付けないことにしました。
常識は捨てました。
すると、なんとなくすんなりことが収まるようになりました。
みんな、夜が怖いのです。みんな、暗くなると漠然と不安なのです。
そうですよね、私もそうです。このスタンスにしてから、夜勤は楽になりました。
ナースコールという呼び出し音が重なってなります。私一人しかいませんが、もうあまり慌てることもありません。一人でできる限界は越えられないので、順番を即座に判断し、ただひとつづつ解決していきます。
夜の空気は、実は平穏と静寂を薄めて配るのも上手だと知りました。
実は根本的な人間性が問われていたのではないのかもしれません。
心のありようが問われていました。どこまで、誰かの声に耳を傾けられるかを問われていたのかもしれません。
自分の内なる声をだいぶ放置しておけるようになりました。子離れみたいな心境です。
仕事以外の時に、自分の内なる声を随分聴いてやるようになったから、仕事の時に放っておいても安心なのでしょう。
私は、かなり、noteに救われているようです。
さあ、仕事に行かなくちゃ。
生きていて夜が怖い人に向き合うのが私の仕事です。