支か応か
そうそう、丁半の読み方ね。
賭場ではなくシャバの話をします。おだんごです。
先日、とあるところで「支援という言葉は苦手だ」というお気持ちに出会いました。
得手不得手は個人のものではありますが、私は対人支援を仕事にしていて、やっぱり何というか、がびーんとなりました。
支援が敬遠される所以みたいなものに心あたりがあるからに他なりません。
支援はどこか高飛車でしょ。なんか押し付けがましいオーラもあるかな。目線が若干上からって感じも否めない。これ全部わたしの個人的見解です。
応援ってそれに比べて、もっとフラットですよね。
相手に対して純粋に心が動かされて、そのことに感謝して、だからこそ前向きで温かいエネルギーを贈ろうとする動きに感じます。
そのため、支援という言葉に抵抗感があるというお気持ちをそのまま受け取りつつ、私の解釈を味見していただけたらと思います。
イメージとしては、苦手な食材を提供していただき料理という工程を通して、イメージや舌触りを変える作業です。ここでは、料理が解釈になります。
支援には足腰があります。応援は心だけでも成立しますが、支援には心がたとえば追いつかなくとも、足腰があります。
足と腰には感情はありません。感情よりも実働があります。その場に走り駆けつけて、腰を据えて寄り添うということです。
その後ろ盾に金銭もあります。役割もあります。仕事と銘打たれることもあります。
支援にあって、応援にはないもの。
私はそれを覚悟だと思っています。
応援には覚悟は必要ありません。ただ感情は必須です。刹那でも構わない。一瞬でも構わない。それでも応援には自分の心を熱くする躍動がなければいけない。と思っています。
支えるとは足腰がなければ成立しません。
自分が立てなければ人を支えることはできない。
応じるとは心がなければ成立しません。
自分の心を見つめなければ人に応じることはできない。
私はそう考えています。
応援は感情が原材料なので、熱を帯び冷めるのは道理です。
それを責めることも、求めることも私は筋違いだと思っています。
反応することは個人のものです。
ただ、支援は感情で左右されるものであるべきではなく、平坦に地味に継続されるものであると感じます。
足腰に意味を求める必要はありません。ただ覚悟を伴うものに携わる自負はあります。
支援と応援は似て非なるもの。
どちらも人と人を繋ぎ、結び、時には距離を生むものでもあります。
支援とは覚悟といいましたが、その暑苦しさが高飛車で高圧的に転じることも、自覚しています。
そして足腰は割と痛めがちです。そんな時に、支えてくれるのは、お金でもやりがいでもなく、向かい合っている人だったりします。
いつの間にか、手を引いて見せてくれる景色に、感情を震わされ、腰に一発喝を入れられたりするもんです。
だから、私は仕事を続けているのでしょう。
支か応か。
どちらもかけがえのない、縁を生み出し、円を描く、大切な援だと思っています。
☆☆☆
今月の中川さんとの大喜利往復noteのエッセイとなります。
支援という仕事をしていますが、胡散臭いと感じています。時に、傲慢だとも感じています。
そのため同業者を信用していない時期もありました。自分のように腹黒いと感じていたからです。
善いと思うことをするときには、もしかしたら悪いことをしていると思いながらやること。
私が常に意識していることです。
支援に感じる重さ。応援に感じる軽薄さ。
どちらにも尊さがあり、どちらにも不足はある。
それでも私はどちらのことも嫌いになれません。
そんな気持ちで書いたエッセイです。
中川さんのイラストを楽しみにしています。
見出しで見切れちゃうから!
ここにフルサイズで!バックの質感もかばさんの粋な背中も、まる好みです!ラブ!