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大型犬と暮らす3

 2歳の誕生日をむかえた冬、ジョンは家の中で寝るようになった。
相変わらずリードでつないだ状態ではあるが、室内用の毛布を用意したときのジョンの喜びようを今でもはっきりと覚えている。
 いくら外気からガラスで区切られているとはいえ、それまでサンルームで寝ていたジョンはどんなに寒かったろうと思うと今でも胸が痛む。暖冬が続いていたことがせめてもの救いだった。

 ジョンには、庭で放したときに急に興奮して飛び掛かってきたり、吠えたり噛みついてくる癖があった。常に繋がれているから、自由になった途端にスイッチが入るのだろうか。
散歩中の引っ張り癖も酷く、叱られると逆切れして唸ったり、リードに噛みついて力任せに引っ張ってくる。
普段は良い子なのにそういった二面性にほとほと困っていて、自己流のしつけに限界を感じていた。
 

 その頃は、失業中の夫、フリーターの長男、中一の次男と私という家族構成で、しつけのルールを決めても夫はまるで聞く耳を持たず、自分のやりたいようにジョンに接した。
酔っぱらっているときは、寝ているジョンを起こし執拗にちょっかいを出す。
ジョンの問題行動が改善されないのは夫のせいに思えた。
 そしてある日、夫のジョンへの接し方への不満が炸裂し、私と長男と次男で集中攻撃する形になった。
夫は頑固でへそ曲がりな質だから、屁理屈をこねまわして一歩も譲らない。
「もうパパはジョンに触らないで!」
「ああ、分かったよ」「その代わり困った時に俺に泣きついてくるなよ」「自分たちで責任もって面倒見るんだぞ」
ジョンはどんなに苦しくいたたまれない気持ちだっただろうか。
自分のことで家族が対立し、家の中が険悪なムードになってしまったのだから。
けれどその時、ジョンの胸中を推し量る余裕など、私にはこれぽっちもなかったのだ。
 
 そして次の日、事故は起きた。
子供たちは普段と同じように自分のことに没頭していて、夫は約束通りジョンに一切触れなかった。
私は店が忙しく、朝の散歩もショートカットで、夕方までジョンは孤独だった。
そして店が終わり、
「ジョン、寂しかったね」
ジョンの顔を撫でようと近づけた左手のひらに、ジョンが嚙みついたのだ。
アッと思った瞬間、血が床にしたたり落ちた。
あんなに狂暴で怒りに満ちた顔は今まで見たことがなく、ジョンはなかなか食い込んだ牙を離そうとしなかった。
 

 長男が隣町の総合病院に連れて行ってくれて、傷を7針縫う手術となった。
「神経と腱はぎりぎり無事だった、運が良かったね」「でも神経の細かい枝葉が損傷しているから、傷が治っても、もしかしたら元のように手がスムーズに動かないかもしれない」
医師の話を、ぼんやりと人ごとのように聞いていた。
看護師さんに色々質問されたが、まるで失語症のように、言葉が出てこなかった。
 

 処置が終わり会計を待つ間、絞り出すような声で長男に話した。
「ジョンは私がほとんど面倒を見てる、餌やりも、散歩も、ブラッシングも」
「私が噛まれたってことは、他の誰にでも今後噛みつく可能性があるよね」
「保健所に連れていくしかないかもしれないね」
 
 家に帰ると、何事もなかったような顔をしてジョンが待っていた。
長男が散歩に行ってくれると言うので、ジンジン痛む手を持て余しながら、とぼとぼとその後を追った。
ピンと立ったしっぽとお尻を振って歩く独特のシルエット。その黒い犬の輪郭はぼやけ、涙がぼたぼたと地面に落ちた。
「ジョンは私の命」
ああ、どうしてほんの一瞬でも、ジョンを手放そうなどと思ったのだろう。
 何か手だてがあるかもしれない。
私は決意した。暗雲たる闇の中、一筋の光を見つける長い長い旅に出ることを。
(大型犬と暮らす4に続く)

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