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地下鉄のコオロギ

2,3年前くらいからかな、
毎年この時期になると、
通勤で使う地下鉄の駅につながる通路
たぶん排水溝のあたりから
コオロギの鳴き声が聴こえる。

そして、なんだか切なくなる。

だんだん日暮れが早くなり、
空気もひんやりしてきて、
秋の訪れを、変わり目を感じる
というのもあるけれど、
なんでこの場所なの?
なんでこんなところで鳴いてるの?って。


同じように、
動物園とか水族館とか
生き物が囲いの中に入れられている場所にいくと
切なく、ちょっと息苦しさを感じる。

日常生活では見ることのできない生き物を
間近で生きている様をみることができて、
動き、皮膚の色、柄、毛とか、
時に触ることもできたりして、
こんな生き物がいるんだって
知らない世界を垣間見ることができて
おもしろい。

だけど、
檻のなかでグルグル歩き回るトラや
同じところを何度も泳ぐジンベエザメを見ていると
なんだかいたたまれない気持ちになる。


動物虐待だとか、
自分が繊細だとかそういう話ではなく、
わたしが勝手に
そこにいる生き物に自分を重ねているという話。
(動物園や水族館ってほんとにいるの?って思うことはある。けど、今回はわたしの話。いや、今回”も”。)

檻や水槽の中にいると、
自然の脅威に脅かされることもなく、
狩りにいかずとも
定期的に食べるものを与えてもらうことができる。
体調が悪ければ、獣医さんに診てもらうこともできる。
なんだかとても安泰に見える場所。

その代わり、
自然界と比べると
とてもとても限られた空間であり、
生まれつき備わっているチカラ、
本能を発揮する必要のない空間のように感じて。

動物園の檻にいるトラ、
水族館の水槽にいるジンベエザメ、
地下鉄の駅の排水溝にいるコオロギ。
どれもなんだか不自然。
動物園に、水族館に
いたい動物もいるかもしれないけどさ。

その不自然さを自分にも感じている。

今いる場所はとてもとても恵まれていて、
楽で、安定があって、安泰そうな場所。
しかし、わたしにとってはもう、
窮屈で退屈な場所になってしまった。

なら出ていけばいいという話なんだけど、
なんせ15年近くいる場所、外は未知。
ワクワクよりもまだ不安や恐れが大きい。

でも、
もう出たくて仕方がないから、
まぁ、しばらくは、恩恵を受けつつ、
そろっと脱走して、そろっと帰って、
みたいにしたいんだけど、
さて、脱走して何しようかな〜。

脱走って、なんか楽しいワード♪

ちょっとずつ、ちょっとずつ、
自分の本質みたいなところを掘り起こしていくと、
とっても拗ねてて、
わたしなんてがまだ存分にあるけど、
一回超えると案外、素直で、わーいって子供で。

どうも最近、自分が採用してきた、
これをやってはダメ、
変に思われる、怒られる、迷惑をかける、
それらがどうでもいいことのように思えてきて、
魚座満月の赦しかな。

過去振り返ると、
9月は何かしら変化の兆しがある月。
はじまりはいつも、9月。
どんなことがやってくるのかな。

そういえば、
地下鉄の駅の排水溝にいるコオロギは、
なんであんなところにいるんだろう。
広ーい原っぱに行ったら、
太陽の陽をいっぱい浴びれるし、
美味しいものもいっぱいあるだろうに。
と思うのはわたしの勝手。

もしもメトロのBGMやったら、粋なエンタメやな。