ハンバートハンバートの『虎』(2010年)
寝る前なんかに聴いていて、気づけば涙が込み上げてくる歌。
今日は、そんな中から一曲。まずは、歌詞全文から。
創作や表現世界を生業にして生きる人の、苦悩が見える歌でもありますが、自分の身に引き寄せて考えてみました。
落ち込むことが続いたり、生きる意味や自身の存在意義を問いたくなったりしたとき、精神的に引きこもりたくなること、ありますよね。歌詞にある「深い深い穴の底でいじけている」ように。三角座りで、ぼーっと一点を見つめている。こんなところに身を置いていてはダメだと分かっていて、出なければと思いながら、本当のところは出たくないとも思っている。
少し足をのばせば美しい風景が広がっていることも、優しく話を聞いてくれる人だってきっといるだろうことも知っている。でも、今はそんな気分にもなれない。自分の孤独や苦悩は誰にも分からない。分かってほしくない。今はこの憂鬱に身を浸して、やり過ごすほかない。
そしてこのフレーズ。ポジティブな気持ちも少しだけ、顔をのぞかせます。自分だってやりたいことがないわけではないんだ、と。できれば人を喜ばせたいし、人からの評価を得たいという功名心もある。
試みたんだけれども、やっぱりうまくいかなかった。もう現実逃避してしまえ、酒だ。ここでの「酒」は、どうしようもない現状を忘却するもの、自意識を捨て去ってしまうために用いるものだと思いました。
私の場合、自分のダメさ加減や現実の苦しみに目を向けたくないときは、惰眠をむさぼる方へ逃げてしまいます。起きていると、色々と悩まされて自己嫌悪やら何やらで苦しくなってくるので、ええい寝てしまえ忘れてしまえ、という。でも、起きたときには、寝る前よりも酷い気分に陥るんですよね。これも一種の現実逃避です。最近は随分減りましたが、自意識を失えば楽になれるのでやっていたことなんだと思います。
2番のサビも、分かり過ぎて辛いですね。やらなければいけないことは沢山あるのに、思うように進まないまま日が暮れていく。今日もダメだった。「負けだ」というのは社会とか他人と比べてというよりかは、自分に負けている、という感覚なのかなと。思い描いていた自分と比べて劣っているような、そんな情けなさと悔しさと無力感とが、ないまぜになった感情ですね。
そしてタイトルにもなっている「虎にもなれずに眠る」の「虎」。この「虎」は、中島敦の『山月記』に出てくる虎と同じニュアンスで用いられているんじゃないかと思いました。
若くしてエリート官僚になった李徴。詩人になる夢を諦めきれず、仕事をやめてまで詩の道を志すものの名を成せず、結局元の職場に戻ります。職場では、見下していた同僚が順調に出世して上司になっており、彼らの命令を聞かなければいけない日々が続きます。とうとう李徴は出張先で発狂してしまい、虎になってしまうのでした。
「尊大な羞恥心と臆病な自尊心により、浅ましい人食い虎に身を落としてしまった」と、たまたま再会した人間時代の友人に語る李徴(初めて読んだときは、この「尊大な羞恥心と臆病な自尊心」という表現に震えましたね…。あと『山月記』は、音読に堪えうる美しい文体も最高だと思います)。
そして、以下のようにも言います。
虎としての「俺」でいる間は、人間としての自意識がない(=無意識)から楽なんだ、ということですね。当初なぜ自分が虎になったのか分からなかった李徴は、最終的に、自身の「尊大な羞恥心」つまり自意識が原因だったのだ、と理解します。
歌に戻ります。「虎にもなれずに」というのは、私たちは李徴とは違って虎になるなどの手段をもって自意識を完全に捨て去ることはできない、ということかもしれません。酒を飲み、眠って、一時的に何もかも忘れることはできても、起きたら、何ら変わりない現実が待っている。
歌において、この先が提示されているわけではありませんが、苦しいけれども自分と折り合いをつけながら何とか生きていくしかないよね、というメッセージが込められているようにも感じました。
最後に、PVに友情出演されているピース又吉さんのコメントを。
しんみり聴き入っているところに又吉さんのタップダンスが始まり、シュールさに思わずクスっと笑いが出てしまいました。PVも好きです。