スピッツ『運命の人』(1993年12月25日)
言わずもがな、珠玉の名曲ぞろいであるスピッツ。『運命の人』は、うららかな陽気を感じられる休日に聴くのにぴったりなナンバーです。
バスの揺れ方で人生の意味が 解かった日曜日
でもさ 君は運命の人だから 強く手を握るよ
ここにいるのは 優しいだけじゃなく 偉大な獣
愛はコンビニでも買えるけれど もう少し探そうよ
変な下着に夢がはじけて たたき合って笑うよ
余計な事はしすぎるほどいいよ 扉開けたら
走る 遥か この地球の果てまで
悪あがきでも 呼吸しながら 君を乗せて行く
アイニージュー あえて 無料のユートピアも
汚れた靴で 通り過ぎるのさ
自力で見つけよう 神様
晴れて望み通り投げたボールが 向こう岸に届いた
いつも もらいあくびした後で 涙目 茜空
悲しい話は消えないけれど もっと輝く明日!!
走る 遥か この地球の果てまで
恥ずかしくても まるでダメでも かっこつけて行く
アイニージュー いつか つまづいた時には
横にいるから ふらつきながら 二人で見つけよう
神様 神様 神様 君となら…
このまま このまま このまま 君となら…
走る 遥か この地球の果てまで
悪あがきでも 呼吸しながら 君を乗せて行く
アイニージュー あえて 無料のユートピアも
汚れた靴で 通り過ぎるのさ
自力で見つけよう 神様
歌詞も、草野マサムネさんの優しくサバサバした歌い上げ方も全体的に好きなのですが、特に推しの箇所について少しだけ。
愛はコンビニでも買えるけれど もう少し探そうよ
変な下着に夢がはじけて たたき合って笑うよ
愛って、J-POPでも映画でも、とかくあらゆる場面で題材になったり、描かれたり、気軽に扱われることが多いですよね。そんな、お手軽に扱われる愛だけれども、そういうことじゃなくて、もう少し自分なりに探してみたい。で、パートナーの下着があまりにも間抜けだったから、愛を誓いあう真面目なシーンだったはずが、すっかり気が抜けてくすくす笑ってしまう。愛かどうかは分からなくても、こういう積み重ねが何だか愛おしい。
アイニージュー あえて 無料のユートピアも
汚れた靴で 通り過ぎるのさ
自力で見つけよう 神様
簡単に手に入る娯楽も、救いの手も、いまの僕には必要ない。あまり格好良くなくたって、くたびれたこのままの僕で、歩いて行けるのさ。この部分、バンプオブチキン『ナナイロ』の2番サビ「疲れた靴でどこまでだっていける」にも通じるものがあります。そして「自力で見つけよう 神様」は、愛とか、神様とか、絶対的なものとかは、外から与えられるものじゃなくて、自分で見つけてみせるよ、という。君と出会えた、いまの僕ならできるんだ。神様を見つけてみせるよ、と大それたことをサラッと言えるすごさ。ある意味、無宗教な日本人だから書ける歌詞でもあります。
いつも もらいあくびした後で 涙目 茜空
悲しい話は消えないけれど もっと輝く明日!!
もらいあくびって、全く何とも思っていない関係性の人からはうつらない気がします。二人して何だか間延びして出たあくび。涙目になって、同じ空を眺めながら歩く、そんな幸せ。身の回りでも、世界中でも、悲しいことや争いは絶えず起こり続けるには違いないけれど、もっと楽しい日になるよ、きっとしようね、という小さくも確かな希望を込めて。ロコちゃんの「明日は、もーっと楽しくなるよね!ハム太郎!」みたいな。
アイニージュー いつか つまづいた時には
横にいるから ふらつきながら 二人で見つけよう
神様
これから人生に迷ったり、喧嘩したり、うまくいかないときも来るだろうけど、僕が隣にいるからね。何とか耐えて生き抜こうよ、という。「横にいるから」というのが、肩を貸すような、程よい心強さを差し出してくれそうな表現がいいですね。一緒によろけてくれそうな感じ。
深刻とも、軽やかとも、そうでないとも取れる、スピッツ音楽と草野マサムネさんの底知れぬ魅力。今日はここまで。