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バレエの振付けの著作物性
1.今回のテーマ
今回は、バレエの振付けの著作物性について検討します。
ダンス(バレエを含む)の振付けは、一定の要素を満たすと「著作物」に該当します(著作権法2条1項1号、以下、著作権法の条文を紹介するときは単に「法」といいます。)。そして、振付家(著作者、法2条1項2号)は、その作品について著作権及び著作者人格権を享有します(法17条1項)。著作権及び著作者人格権の享有にあたっては、いかなる方式(出願や登録等)も要しません(法17条2項)。
本稿では、まず、作品が著作物と認められるための要素を概観し、次に、フラダンスの振付けの著作物性を判断した裁判例を分析します。バレエの話をしようとしているのにフランダンスの裁判例を取り上げるのは、現時点ではバレエの振付けの著作物性を具体的に判断した裁判例が見当たらないからです(*1)。そして、最後に、それまでの分析を踏まえ、バレエの振付けの著作物性の例を考えてみます。
2.著作者の権利
作品が著作物と認められるための要素の説明に先立ち、ある振付け作品が著作物と認められた場合の法的な意味、つまり、著作者が享有する権利のうち、主なものを説明します。
振付家(著作者)は、その作品(著作物)を上演する権利を専有します(上演権、法22条)。当の振付家以外の人がその作品を不特定多数に向けて踊るには、振付家(著作者)の許諾を得る必要があります(*2)。
振付家(著作者)は、その作品(著作物)を勝手に上演しようとしている人を見つけたら、上演を止めるように請求することができます(差止請求権、法112条1項)。また、無許諾で上演されてしまった場合は、振付家は損害賠償請求をすることができます(民法709条、法114条以下参照)。
また、当の振付家(著作者)以外の人は、振付けを勝手に変更することも許されません(同一性保持権、法20条。また、アレンジを加えること(翻案、法27条)も著作権者の許諾がなければ行えません。)。
ここで、試行的に、ありふれた動きについてまで簡単に著作物と認められる場合の帰結を考えてみます。バレエのレッスンで一般的に用いられるアンシェヌマン(バレエの最小単位の動きである"pas"(パ)を複数つなげた一連の動き。フランス語で「連鎖」という意味)にまで著作物性が認められるとすると、あっという間に、著作権で保護されたアンシェヌマンだらけになり、著作物の対象外の動きが極端に減っていきます。そうすると、早晩、新しい振付けを作る余地がなくなります。このような事態を回避するため、著作権法は、著作物に当たる範囲を少しばかり限定しているのです。
3.著作物の要素と判断の傾向
(1)著作物の要素
著作権法は、著作物に当たる範囲を少しばかり限定するために、「創作的」な表現であることを著作物の要素として定めています(著作権法2条1項1号は、著作物を、「思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。」と定義しています。)。
「創作」性があるとは、作り手の「個性が表れている」という意味です。「ありふれていない」とか「類例があまりない」と言い換えることもできます。もっとも、ありふれていなければそれでよいと解釈されていて、際だった独創性までは求められていません。また、芸術的価値や格調の高さも不要です。
(2)裁判所の判断傾向
著作物に関するこれまでの裁判例をみると、裁判所の判断には次のような傾向があります。
選択肢が非常に限られるなかで作られる表現の著作物性は、やや厳しく判断されます。他方、ある表現が、膨大な選択肢のなかから作られる表現である場合、選択肢の抽出と組み合わせに個性が出やすくなるため、著作物性が認められやすい傾向があります。
文章を例に考えてみます。小説や詩のような文学作品以外の言語的表現、例えば、日々、ソーシャル・メディアで書き綴られている文章も著作物になりえます。本稿も、これだけの長さがあれば、裁判所は、そこかしこに私の個性が表れているとして、著作物と認めてくれるでしょう。数え切れないほど多くの単語のなかからどの単語を選び、どのようにつなげて文として、さらには文章として表現する過程に、私の個性が相応に表出すると考えられるためです。
他方で、誰が作っても似たような表現になるときは、表現に個性が表れるとはいいがたいので著作物とは認められません。一番わかりやすい例は非常に短い文です。例えば、この項の第1段落「著作物に関するこれまでの裁判例をみると、裁判所の判断には次のような傾向があります。」は、同趣旨のことを誰が表現をしても、同様の表現になるでしょう。ありふれた表現にとどまるものとして、裁判所は、著作物には当たらないと判断するでしょう。たとえ誰かが私の投稿を参考にし、その1文とほぼ同じ文をその人自身の文としてどこかに掲載しても、著作権法には違反しません。
つまり、誰かが本稿全体(あるいは、ある程度、個性の表出があると判断されるような1,2段落以上のまとまり)を私に無断で転載したり(正当な引用は除きます。)、自分の文章であるかのように文章に取り込んだりすれば、それは私の著作権を侵害します。しかしながら、この文章のなかのありふれた一文だけの利用であれば著作権法違反にはなりません。
ここまでのまとめ
・著作物性は「創作的に」表現されている場合に認められる。
・創作性があるとは、ありふれた表現ではないことを意味する。高い独創性までは求められない。また、芸術性があることも不要である。
・多数の選択肢があるなかで作られた表現は、著作物性が比較的緩やかに認められる傾向がある。
・選択肢が非常に限られるなかで作られる表現の著作物性判断は、やや厳しくなる。
4.ダンスの著作物性判断
(1)定石の組み合わせのダンスの著作物性は認められるのか
それでは、ダンスの振付けの著作物性について深掘りしていきます。本稿では以下、それぞれのジャンルのダンスにおける、土台となるステップや動きを「定石」と表現することにします。
定石が重視されるジャンルのダンスは、全く定石にとらわれないダンスと比較すると、選択肢が限られた表現にあたりそうです。そうすると、定石が重視されるダンスの振付けの著作物性判断は厳格になってしまうでしょうか。過去に、裁判所が定石の組み合わせをベースにしているダンスの振付けについてどのような判断をしているかをみていきます。
(2)フラダンス事件
大阪地裁平成27年(ワ)第2570号は、フラダンスの振付けの著作物性が争われた事案で、振付けに著作物性を認める枠組を示した裁判例です(*3)。フラダンスも、バレエも、定石をベースに踊りを作るという点で共通性があるので、本稿のテーマの参考になると考えられます。
ア フラダンスの特徴
判決の論理をよりよく理解するため、判決文のなかの、フラダンスの説明部分を抜粋します。
すなわち,フラダンスの振付けは,ハンドモーションとステップから構成されるところ,このうちハンドモーションについては,特定の言葉に対応する動作(一つとは限らない)が決まっており,このことから,入門書では,フラでは手の動きには一つ一つ意味がある(乙3)とか,ハンドモーションはいわば手話のようなもので,手を中心に上半身を使って,歌詞の意味を表現する(乙5)とされている。他方,ステップについては,典型的なものが存在しており(乙3ないし6の入門書では合計16種類が紹介されている。),入門書では,覚えたら自由に組み合わせて自分のスタイルを作ることができる(乙3)とされている。
イ 事案と判決の概要
本判決は、概ね以下のように述べて、原告のフラダンスの振付けの著作物性を肯定しました。
①フラダンスは、作者(振付家)の個性が表れている部分やそうとは認められない部分が相俟った一連の流れとして成立するものであるから、定石の組み合わせのみでは「個性の表れ」があるとはいえない。
②もっとも、1曲のなかに一定程度個性の表れがあるといえる部分が混じっていれば、その曲は全体として著作物にあたる。
定石が重視されるジャンルのダンスの振付けは、必然的に定石の組み合わせがベースとなります。そして、定石の組み合わせのみで構成される振付けは、法的には「ありふれた」「類例のある」表現であると評価せざるをえず、著作物とは認められません。
もっとも、たとえ、ある場面で用いることのできる定石の数(選択肢)が少なくとも、その定石の選択や組み合わせが類例のないものであったり、著しいアレンジが加えられたりしたら、個性が表れていると評価される可能性があります。そして、本判決は、1曲全体のなかに振付家の個性が表れる部分がいくつかあれば、その部分を含む曲全体を著作物と認めることができるという判断しました。
ウ フラダンスの振付けの「個性」についての具体的性判断
(ア)創作性があると認められるために必要な個性の表出の度合い
次に、裁判所が、著作物性を認めるのに必要と考える振付けの「個性」の程度を検討します。フランダンス事件の判決文は次のように説明しています。
それらのハンドモーションが既存の限られたものと同一であるか又は有意な差異がなく,その意味でそれらの限られた中から選択されたにすぎないと評価し得る場合には,その選択の組合せを作者の個性の表れと認めることはできないし,配列についても,歌詞の順によるのであるから,同様に作者の個性の表れと認めることはできない。
他方,上記で述べたのと異なり,ある歌詞に対応する振付けの動作が,歌詞から想定される既定のハンドモーションでも,他の類例に見られるものでも,それらと有意な差異がないものでもない場合には,その動作は,当該歌詞部分の振付けの動作として,当該振付けに独自のものであるか又は既存の動作に有意なアレンジを加えたものいうことができるから,作者の個性が表れていると認めるのが相当である。
「有意な差異がないものでもない」という、奥歯に物が挟まったような言い方ではありますが、裁判所は、著作物性を認めるにあたって、際だった独創的や珍しさまでは必要としていないことを意味していると受け止めてよいでしょう。
(イ)裁判所が「個性が表れている」と認定した部分
そこで、裁判で問題となった曲の1つである「E Pili Mai」を例にとり、裁判所が振付家(原告)の個性が表れていると認定した以下の歌詞の振付けを取り上げ、裁判所が「有意な差異がないものでもない」と評価する振付けについて、どのような個性がどの程度表出しているかをみてみます。
この曲の中の、「Po anu ho‘okahi no au」という歌詞は、判決文によると、Poは「夜」、anuは「寒い」、ho‘okahiは「ただ一人の」、auは「私」の意味で、その事件の原告(振付家)は、これを「夜は寒く 私は一人」と訳しています。この部分には、次のような振付けが当てられていました。判決文の表現を借りつつ説明します。
<前半(Po anu/夜は寒く)>
両手の掌を下に返して右肘を少し曲げ,そのまま両腕を下ろしながら胸の高さまで持って行き,胸の前で体に沿うように両腕を交差させて両手の掌を内側に向ける。一連の動作は右に270度ターンするステップの中で行われる
裁判所は、前半部分の振付けについて、ターンは通常のステップの一つではあるものの、「夜」や「寒い」といった静的な歌詞からは通常は想定されない動きであることや,両腕を降ろしながらターンすることによって体全体の躍動感を高めていることを挙げて、「有意な差異があるというべきである。」と判断しました。
<後半(ho‘okahi no au/私は一人)>
ターンにより左斜め後ろを向いたまま,両腕を伸ばしきるまで下ろしながら左斜め後ろへ左足右足を交互に2歩ずつ前進する
裁判所は、後半部分の振付けについて、聴衆と反対に向かって歩いていくことで「彼が孤独である」ことを表し,両腕を下ろすことで抱きしめる者がおらず一人で寒い夜を過ごしていることを表しているところ、「ターンにより左斜め後ろを向いたまま,両腕を伸ばしきるまで下ろしながら左斜め後ろへ左足右足を交互に2歩ずつ前進する」動作が歌詞から想定されるものでなく、これと同様の動作を行っている類例は認められないとして、振付家の個性が表れていると認めました。
歌詞の意味・雰囲気とあわない動作(歌詞が「静」で振付けは「動」のイメージ)が振付けとして質がよいかどうかは疑問を挟む余地があるように思います。もっとも、イメージが真逆であれば、そのような振付けはあまり類例がないでしょうから、原告の個性が表れているといいやすかったのでしょう。
また、「ターンにより左斜め後ろを向いたまま,両腕を伸ばしきるまで下ろしながら左斜め後ろへ左足右足を交互に2歩ずつ前進する」のは、動きとしてはシンプルです。際だった独創性があるとまでは感じません。ただ、フラダンスで通常用いられる動きではないという理由で、個性の表出があると認められました。
(ウ)個性が認められた部分の割合
裁判所は、以上のようにして、各曲を数十のパートに分けて、1つ1つのパートの振付けに個性の表出があるか否か判断しました。
判決文をもとに数えてみたところ、裁判所は、「E Pili Mai」を50のパートに分け、検討していました。その結果は以下のとおりです。
① 完全に独自の振付けであると認めた部分は4個
② 有意なアレンジが全体に散りばめられていると認めたパートは12個
③ 個性が認められないパートは34個
(*4にて詳細な説明をしておきます。)。
つまり、裁判所が、「完全に独自」であるか「有意なアレンジ」があるとして「個性が表れている」と判断した部分は、1曲のなかの32%(16/50)にとどまりました。逆にいえば、そのくらいの割合でよいと判断したわけです。裁判所が求める個性的な部分が1曲に占める割合は、あまり高くなくてよさそうです(*5)。
5.バレエの場合
ようやく、本稿のテーマに入ります。
バレエの動きの特徴についての、元バーミングガム・ロイヤル・バレエの山本康介さんのコメントを紹介します。2021年のショパン・コンクールで2位に輝いた反田恭平さんの演奏時の身体の使い方を、バレエ・ダンサー視点で解説する際、山本さんはバレエについて次のように説明をしました(*6)。
確かにバレエでは、上半身は、様式には沿いつつも、足に比べてアレンジを加えやすいように思われます。加えて、パ(バレエの最小単位の動き)の種類の数は、フラダンスのステップの数(判決によると入門レベルの教科書で紹介されるのは16種類)よりも多いと推測されます。そうすると、バレエは定石が重視されるダンスであるといっても、フラダンスや社交ダンス(*5参照)よりは選択肢の数が多く、論理的にあり得る組み合わせの数も多く、かつ、上半身のアレンジの余地が広いといえそうです。
そうであれば、バレエの振付けの著作物性は、フラダンスの振付けよりも緩やかに判断される可能性がありそうです。つまり、一定程度の長さのまとまりがある振付けであれば、著作物性が肯定される可能性が高まると考えます(*7)。
以上を踏まえた、バレエの振付けに対する裁判所の判断の私の予測は、以下のとおりです。
・バー・レッスンやセンター・レッスンで使われる通常のアンシェヌマン:著作物性否定。既存のパとアームス(腕)のポジションを組み合わせたものが基本で、独創的なアレンジはなく、類似性がないといえるほどの組み合わせではないため。
・小作品/全幕を構成する各曲/全幕:著作物に当たると判断される場合が多い(*7)。個性の強い作品であれば、曲の一部だけ(例えば、1フレーズ分)だけを抜き出した場合でも、それ単体で著作物に当たると判断されることもある。
上記をジョージ・バランシン振付けのTschaikovsky Piano Concerto No. 2に当てはめてみます。
3楽章構成で上演時間約40分のこの作品は、全体を通してみた場合、日本の裁判所の基準で著作物に当たることに疑いはありません。楽章単位に分割しても同様でしょう。バランシン財団の許諾なく上演することは明らかに著作権侵害です。そのことに異論をもつ人もいないでしょうから、楽章単位または同作品全体の著作物性が、裁判上の実質的な争点となることはないでしょう。
裁判上の争点になりうるとすれば、この作品のなかのごく一部、たとえば1フレーズ分とよく似た振付けを含む作品に対し、バランシン財団が著作権侵害を主張し、他方の作品の振付家が、該当の短い部分だけでは著作物にあたらないと反論するような場合でしょう。その場合、その抜き出された部分だけを単体でみて、それが著作物といえるかどうかが裁判上の争点となります。
結論は、どの部分が抜き出されたかにもよって異なるでしょう。ただ、1フレーズ程度の短い部分であっても、それ単体で著作物と判断される余地があることは期待してよいと考えます。
ウィーン国立バレエ専属ピアニストの滝澤志野さんは、バランシンの振付けの音楽性について、以下のように説明しています(*8)。Mr.Bはバランシンのことです。
バランシンが長く芸術監督を務めたニューヨークシティバレエ団 New York City Ballet (NYC Ballet)のYouTubeチャンネルで、ソリストのLauren KingとピアニストのSusan Waltersが作品の魅力を語っているので紹介します(*9)。私にとって特に興味深かったのは、ダンサーのLauren Kingの次のコメントです(以下のコメントのShe/her というのはピアニストのSusan Walters のことです。)
この作品では、ピアニストにとって演奏が難しい箇所とダンサーにとってステップが難しい箇所が見事に合致していた、バランシンは、ピアニストの運指が非常に技巧的な部分の音楽を、ダンサーのステップやフットワークに反映させようとしていたのではないか、という趣旨です。
前述の山本さんのコメント「そう考えるとダンサーの足は、ピアニストでいうなら正確に鍵盤を叩く、手にあたるのではないでしょうか。」という説明と見事にシンクロしています。
滝澤さんのいうところの「音楽の全ての要素がそのまま振付けに表現されていて、踊りのリズムと曲のリズムが見事に一致」させた振付けを作るには、振付家自身に高度な音感、リズム感、メロディを聴き分ける能力、そして、それらを身体表現に置き換える想像力、センスが必要で、それらの才能を土台に、バレエの個々のパの特徴やそれらが観る人に与える印象を想像してどの音楽にどのパをどのように組み合わせるかを考えて振付けることとなります。そして、バレエの場合、音楽と身体表現の組み合わせには、フラダンスの歌詞とハンドモーションの組み合わせのような対応関係がないので、選択や組み合わせには、自ずから振付家の個性が表れるというべきでしょう。一見、オーソドックスなパの組み合わせに見えるとしても、他人が真似できるものではなく、同じ曲に他人が振付けをしても、同じような表現になるとは考えにくいです。ですので、バランシンの振付けについていえば、一部分のみを取り出しても、その一部分に著作物性が肯定されるケースは、それなりに多いと考えます。
とはいえ、いかにバランシンであっても、1曲を細分化したときに、どのシーンにも必ず著作物性が肯定されるような振付けをすることは不可能です。それは、既存のパをベースにするバレエの特性上、当然の限界です。
例えば、Tschaikovsky Piano Concerto No. 2のなかに、主演ダンサーがシェネを連続して行うシーンがありますが、さすがにシェネの連続の部分だけをとりだしても著作物性は否定されるでしょう。ですので、主観的には誰かがTschaikovsky Piano Concerto No. 2のシェネの部分を踊っているつもりでステージでターンをしても、それだけではバランシン作品の著作権侵害にはありません。
逆にいえば、そうであるからこそ、バランシンも、先人の著作権に阻まれずに、既存のパやその組み合わせを作品に取り入れることができたのです。
Appendix 改定版を作ることができるのはなぜか
2021年9月シーズンのオープニングで、新国立劇場バレエ団がピーター・ライト版「白鳥の湖」を上演したことが話題になりました。クラシック・バレエでは、古典作品に別の振付家がアレンジを加えて改定版を作ることが折々にあります。
本稿の冒頭で述べたように、著作権には「勝手にアレンジするな」と請求できる権利(翻案権)が包まれます。著作物であるはずの全幕物のバレエの改定版が多数存在するのはなぜでしょうか。
理由は簡単で、適法に改定できる方法があるからです。著作者の許諾を得れば、振付けを改定・変更することは可能です。また、著作権の存続期間が過ぎれば原振付けの著作権は消滅します(現在の著作権法では著作者の死後70年間。以前は50年間でした。)。著作権の消滅した作品はパブリック・ドメイン(社会の公共財産)とも呼ばれ、誰でもその作品を自由に利用(改定含む)することができます。
では、著作権の消滅した古い作品を改定したとき、「改定版」の著作権はどうなるでしょう。改訂部分の振付けに個性があれば、その部分は著作物として保護されます。プティパ、イワーノフの「白鳥の湖」の原振付けの著作権はすでに消滅していますが、ピーター・ライトが改定した部分は(おそらくは多々、個性が表れていると思われるので)、著作物として保護されているといえるでしょう。
注釈
*1 クラシック・バレエの振付けの著作物性の判断基準を示した裁判例(先例性のある判決)が見当たらないといっても、バレエの著作物性が争点となった裁判がこれまで存在しなかった、と断言できるわけではありません。日本の民事裁判は、「裁判上の和解」で終了することが圧倒的に多く、その場合、判決は言い渡されません。
ところで、バレエの振付けに関する裁判例というと、前回とりあげたベジャール事件が紹介されることが多いですが、その事件の実質的争点は著作物性ではありませんでした。同事件では、ベジャール作品がベジャールの著作物であること自体は実質的な争点ではなく、裁判所は、バレエ作品が著作物であるための判断枠組みを示していません。
*2 もっとも、著作者の許諾なしではあらゆる上演が禁じられるというわけではありません。営利を目的せず、出演者に報酬を支払わないパフォーマンス(法38条1項)や正当な引用(法32条1項)であれば、著作権者の許諾は不要です。しかしながら、非営利性等は厳格に解釈されるので注意してください。観客から入場料を徴収しないバレエ教室の発表会であっても、ゲストダンサーに謝礼を払ったり(名目がお車代等であっても)、教室の宣伝を兼ねるものであったりすれば、その発表会での実演は、著作権法上、法38条1項の例外に当たらないと判断されます。出演者の保護者や親戚、友人らしか見に来ないような発表会であっても、著作権の切れていない作品を上演する場合には、振付家の了承をきちんと得ておくのがよいでしょう。
*3 本論とは無関係ですが、この裁判は、文章のみでは作品の内容を示すことが困難な振付けをいかに書面上に表すかという点においても参考となります。原告(フラダンスの振付家)は、当事者間で著作物性に争いのなかった4曲については、実演の撮影データをDVD-Rに記録してそれを引用する方法で特定し、裁判所に提出しました。他方、当事者間で著作物性に争いのあった6曲の振付けについては、ダンサーが実演する様子を細かく写真撮影し、各写真の下部に、その写真のポーズの前後の動作を言葉で説明するという方法で、振付けを表示させました。本文で紹介した楽曲」E Pili Mai」という曲の説明には100枚を超える写真が使用されています。
*4 楽曲「E Pili Mai」の振付けの各パートについて、裁判所が個性の表れがあると判断したか否かを具体的にみてみます。本文のとおり、裁判所はこの楽曲を50のパートに分けました。
裁判所が完全に独自な振付けが見られると認めた部分・・◎
裁判所が他の振付けとは有意に異なるアレンジが全体に散りばめられていると認めた部分・・○
裁判所が個性が表れているとは認めなかった部分・・×
と表記して説明します。
以下は、1番の歌詞の振付けを(ア)から(ケ)をまず9つに分類し、さらにそれを2、3のパートに分けている、という意味です。
(1番の歌詞)
(ア)①×、②×
(イ)①×、②×
(ウ)①○、②◎
(エ)①×、②×
(オ)①×、②×、③×
(カ)①○、②○、③○ (ただし、①から➂を一体的にみており、①体を大きく伸ばし、②大きく屈み、③再び大きく伸ばす動作の流れについて個性を認めています。)
(キ)①◎、②×
(ク)①○、②×
(ケ)①×、②×
(コ)(間奏、歌詞なし)①○、②×、③×
(2番の歌詞)
(ア’)①×、②×
(イ’)①×、②×
(ウ’)①○、②◎
(エ’)①×、②×
(オ’)①×、②×、③×
(カ’)①○、②○、③○(1番と同様)
(キ’)①◎、②×
(ク’)①○、②×
(ケ’)①×、②×
(エ’)①×、②×
(エ”)①×、②×
(ス)終奏①○、②×、③×
*5 そうはいっても、裁判所は、身体の動きの独占を安易に認めることをよしとはしません。映画作品に用いられた社交ダンスの振付け(比較的短い)の著作物性が争われた事件では、振付けの著作物性が否定されました。その振付けが既存のステップのありふれた組み合わせにとどまるという理由です(東京地裁平成20年(ワ)第9300号、「Shall we ダンス?」事件)。
フラダンス事件と「Shall we ダンス?」事件の判決を総合すると、数秒単位の短い振付けで著作物性を肯定するにはかなりの独創性が必要ではあるが、1、2分程度以上の長さのある振付けで、一部に多少の工夫が凝らされていれば、曲全体は著作物と認められる可能性が高まるとといえるかもしれません。
なお、繰り返しになりますが、著作物性と振付けの芸術性の有無・高低は、別問題です。もちろん、バランシン作品のように芸術性が高く評価される振付けは、通常、振付家の個性が満ちあふれているでしょうから、芸術性が高い作品であれば著作物性が認められやすい、という関係はありそうです。他方、著作物であると認められた作品であれば芸術性が高いというわけではありません。そして、著作物性が否定されたからといって、質が低いわけでもありません。
「Shall we ダンス?」の振付けは、社交ダンスをわずかにかじった人が考えつく水準のものではありません。私自身は、あの映画のダンスの振付けは、映画のキャラクター(性格、得手不得手、ダンス歴等)やストーリーにうまく合わせた魅力的な振付けであると思っています。
*6 「なぜ反田恭平の音に魅了されるのか? ショパンコンクール2位を裏付けた『肉体改造』」(PHPオンライン衆、反田恭平著『SOLID』(世界文化社)より一部抜粋・編集したもの。)
https://news.yahoo.co.jp/articles/0dc6f628ce68670e8c722dbd00d4dda38a83d309?page=1
*7 ただし、バレエの技術をほとんど持ち合わせていない初心者の生徒のための振付けは、ベーシックな少数のパのオーソドックスな組み合わせにとどまることも多いと想像します。そのような振付けですと、たとえ1分程度ないしそれ以上の長さがあっても、著作物性は否定されてしまうかと思います。
*8 「ウィーンのバレエピアニスト〜滝澤志野の音楽日記〜バランシンが教えてくれること。」
https://balletchannel.jp/19971
*9 “NYC Ballet's Lauren King and Susan Walters on George Balanchine's TSCHAIKOVSKY PIANO CONCERTO NO. 2“
https://youtu.be/PYYJl-pZidc