言葉の力
自分を捉えるのに「アスペルガー(ASD)」「ADHD」という名称があるのは、すごく便利だ。
この言葉で調べれば、似たようなことに苦労してきた人たちの膨大な情報が出てくる。
でも、言葉との距離感に気をつけたい。
言葉は力を持っている。
人間は、自分についた名前にふさわしいものになろうとする性質があるように思う。
言葉の持つ特定の側面に自分を寄せようとすることもある。
ついうっかりすると、ASDやADHDが自分のアイデンティティだと思ってしまいかねない。
でも、それは違う。
私が私を理解する上で、現存する概念のなかで今のところ一番ピッタリきているのが「ASD」なり「ADHD」という概念(名前)とそれに付随した特性に関わる情報というだけなのだ。
ASDやADHDがイコール私ではない。
でもふと気を抜くとイコールになってしまいそうな時がある。
本に書かれているASDやADHDの特性をわざわざ演じてしまいかねない自分がいる。
危ない危ない。
違うよ、
私は私だよ、
ということを思い出すために書いておく。
私は、ASDやADHDの特性を持っているんだ。
それだけでいい。
本当は、私が私を説明するのにASDやADHDとは違う、もっとピッタリくる言葉があるはずなんだけど・・・とも思う。
今は存在しなくても、未来には違う捉え方の言葉ができるといいな。
「障害」の捉え方が今とは変わればいいと思う。
個体の特性と環境条件があっていない事が、「生活の支障をうむ」、そのことを「障害(disorder)」と呼んでいる・・・はずなのだが、「障害」という言葉には分厚い差別・偏見・排除の歴史がつきまとっている。
「障がい者」にネガティブなイメージがくっついている。
この背景には、定型発達や健常者を「望ましい状態」「良いこと」、非定型発達や身体障害者を「問題」と捉えてきた近現代社会の価値観がある。
「障がい者が問題だ」という価値観のまま「合理的配慮を」と言っても、それではいつまでたってもは根っこは変わらない。
健常者>障がい者の図式のままだ。
本来であれば単純に体や脳・神経の「働き方、仕組みが違う」だけの話。
その違いに本質的な良し/悪しはない。
環境に適応しやすいか、しにくいか、というのはある。
環境を作るのは自然と社会だ。
今の社会は健常者中心の環境になっていて、それゆえ健常者とは違う特性を持った人たちが「生活の支障」に直面する。
非定型発達でも、身体障害を持っていても、それぞれが適応できる社会環境の方がいい。
「仕組みが違う」人たちが各々楽しく暮らせる社会がいい。
それには、「障がい者が問題だ」の図式とは違う、新しい図式、新しい言葉が必要だ。