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ノンバイナリーでASD

わたしはノンバイナリー!そしてASD!

どっちの言葉も今の社会では色々なジャッジメントとか(時にはネガティブな)イメージがくっついて回っている。
でも、それらの価値判断を一度全部取り払った上で残る「特性」や「傾向」、「性質」を見たときに「ASD」と「ノンバイナリー」は「わたしを説明するのにかなり有効」な概念だなと思う
(*医学的な診断としてはASDグレーゾーン。でも、わたしがわたしを説明するのに医学的根拠は必要ないとも思う)

ここ2年ほどかけてじわじわと、「自分はASD?」「え、自分はノンバイナリー?」と言うことを問うて、この二つの概念を使うと自分への理解の解像度がとてもあがることがわかってきた。

敢えて人に言う必要もないし、説明する必要もないと思いつつ、
ASDもノンバイナリーも、それを取り巻く「語られ方」が偏りすぎていて、あんまりだよな・・・と思うことも多い。

本質的にASDであることやノンバイナリーであること。
それが「良い」と解釈されるのか、「悪い」と解釈されるのかはその社会や文化の文脈次第。
現代日本では、ASDやノンバイナリーを公言している芸能人や政治家、身の回りで公言している人たちがとても少ない。なんなら「絶対知られたくない」と思ったりする。そう考えると、現代日本でASDやノンバイナリーであるということは不利だったり、ネガティブなイメージがついて回っているんだなと言うことが分かる。

ASDであれノンバイナリーであれ、他のなんであれ、どんな特性を持っていようがそれが「本質的に悪い」ことである訳がなく、そこには「良い」も「悪い」もない。
「良い」とか「悪い」とかの価値判断は人間が後から事象に対して意味づけをしているだけなので、逆に言えばどんな特性だって「祝福」であり「素敵」だと解釈することもできる。

ASDやノンバイナリーが現代日本で生きにくいのはそれらの特性が悪いのではなく、現代の社会の設計があまりに狭い特性(定型発達/シスジェンダーの異性愛者)にフォーカスしすぎているから。

ASDやADHDであることや、性的に多様なあり方は、それ自体はとても軽くて楽しくてこの世の豊かさだと思う
植物の世界を見てみようよ!!!
本当に自由だよ
人間だって自然界の一部で、みんな違う遺伝子を持っている
いろんな遺伝子があって、いろんな特性があるのは当たり前なんだよ

ここで一つ、紹介したい理論があるよ!!
表現型=遺伝子型+環境
  ・「表現型」とは表に現れる特徴
  ・「遺伝子型」はその個体が生まれ持った遺伝子
  ・「環境」はその個体を取り巻くさまざまな社会的・生態的環境

例えば同じ遺伝子を持つクローンの野菜でも育つ環境が違うと表に出てくる特徴(表現型)は変わってくる。環境次第で大きく育ったり、小さく細っこかったり、芽が出るタイミングも違ってくる。

今の社会は、とっても狭い「表現型」を求めている。
朝起きられる人、世間一般で共有されている時間感覚がある人、長時間座っていられる人、コミュニケーションが得意な人、胃腸が強い人、体力のある人、意に沿わないこともダメージ少なくできる人、外的刺激に対して疲れにくい人、人間を「男か女か」に二分することに違和感を持たない人、持ったとしても体が女として生まれたのであれば「女」っぽく装い振る舞えること、異性愛(に見える)こと・・・(まだまだ色々)

その社会が求める「表現型」に合わせるのが苦痛で仕方ない人たちは、これまでは無理矢理それに合わせるか、「落ちこぼれ」とか「不良」みたいなレッテルを貼られたり、社会の周縁で透明化していた

これからは、もっと各個人が持っている本質的な特徴を活かすと言うことにシフトしていくといい
どんな人であれ、その人が本来持っている特質がノビノビ自由に発揮されるように「環境」が調整されるといい
社会が求める「表現型」がもっと幅広く豊かになるといい
そう言う意味では、早く社会がASDやノンバイナリーに追いつけばいいと思う

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