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【あべ本#5】山口敬之『総理』

「総理」を描いたものじゃない!?

ここまで「反安倍」的なスタンスの方々による本を紹介してきたので、ここらで「親安倍」本を。「安倍べったり」と評されることの多い山口氏ですが、(例の伊藤詩織氏との一件も含む)事前情報は取りあえず措いて、フラットな目線で読むことを心掛けました。

が、フラットな目線に努めても抱かざるを得ないのは、「これ、『総理』を描いたテイで『政府要人に食い込んでいる俺』を描いてますよね……」という感想です。

それはもう前書きが、総理ではなく自分の戦地取材から始まっていることを指摘するだけで、感じ取っていただけるかもしれませんが。

これは好みにもよると思いますが、「私」が頻繁に登場するノンフィクションというのは、どうも苦手ですね……。

「食い込んでいる(いた)」ことは事実

確かに政権にぐいぐい食い込んでいて、安倍―麻生ラインのメッセンジャーを務めたり、ナマのやり取りを「ここまで書く?」というくらい書き込んでいるのは事実。これを、まだ政権が続いている最中に書いてしまうっていうのは、いわゆる「番記者」的な新聞記者はやらないんじゃないでしょうか。また、記者が同時代的に書く場合には相当客観的に、「取材している自分」があまり登場しない形で書くのではないかという気がします(朝日新聞取材班の『権力の背信』は例外)。

また、周囲からいろいろ言われて悔しかったのはわかるのですが、「食い込んでいることと、べったりは違う!」という弁明を自らしてしまうのはどうかと思うし、ルポ(ノンフィクション)の体裁を取りながら、「安倍に対する筆者自身の価値判断」に言及してしまっているのも、疑問を感じてしまう。食い込んでいることとべったりを分けるのはこの辺りなのでは?

その後、さまざまな問題が噴出して、山口氏は安倍総理から国会の場で「単なる番記者のひとり」と言われてしまいましたが、この本を読む限りでは「どの番記者にもこんな風に対応しているはずはないよな」という印象を持ちます。

「岸信介」ではなく「安倍晋太郎」

中川昭一氏が亡くなった時のエピソードがつづられた章は全般的に印象的ではあるのですが、そこでも「俺が奔走した」を書いてしまうあたりはご愛敬。発見だったのは、麻生氏が「死せる中川、生ける保守を走らす」という言葉を口にしたという話。果たして今の保守、自民党は中川氏の理念を継承しているでしょうか。対米自立を訴えていた中川氏が、今の安倍―トランプ関係をどう見るかな……というのは議論の分かれそうな話です。

もう一つは、表紙の写真。総理執務室の写真だと思われますが、机の上にあるのは安倍晋太郎の写真なんですね。なにかと、岸信介を意識している、継承者だといわれる安倍総理。安倍晋太郎をすっ飛ばして語る論調は親・反問わず多いし、親安倍的な人の中には安倍晋太郎の評価が厳しい人もおり、逆に反安倍的な方の中には安倍晋太郎の父・安倍寛の政治的意志を晋三は忘れるな、という人もいる。安倍総理自身はこういう評価をどう思っているのだろう、とこの写真を見て思いました。



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梶井彩子
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