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【あべ本#4】佐高信編『徹底解剖 安倍友学園のアッキード事件』

「核心」とは何か?

カバーの装丁からして煽っているなあという感じですが。帯文もかなり大きめに「森友事件の核心」とありますが、確かにまことしやかに様々な関係者の名前が登場してはいるものの、今となっては投げっぱなし言いっぱなしになっている部分があります。帯に登場している籠池家の長男・佳茂氏は「転向」してしまいましたし……。

前回ご紹介したあべ本レビューの最後に「森友学園問題は大阪の問題だったはず」と書いた流れでこの本を紹介したのは、その投げっぱなしの部分に「森友学園in大阪」の疑惑への指摘が盛り込まれているからです。

この事件で有名になった木村真豊中市議をはじめ、校舎建設利権にかかわった業者、維新系や自民系の府議らなど、固有名詞がいくつも登場します(特に『週刊金曜日』野中大樹記者の記事)。

森友学園関係では何冊か関連書籍が出ていますが、まだ全容がわかるものは登場していません。実際、それぞれの人が勝手に動いた結果、こんなことになっただけで、多くの人が思っているようなすっきりと筋立てが通ったストーリーも、「全容」も「核心」も「真実」もどこにもないのかもしれません。

籠池元理事長が証人喚問の際などに「みんなの思いがファーっと一つになって、神風が吹いた」的なことを言っていましたが、これも本人からすれば「そうとしか思えないくらい、いろんな偶然が重なってうまいこと進んでいった」という本心の表れだったのかも。が、こんな言い方をしたがために、かえって真意が疑われることになったわけですが……。

「潰さなあかん」は許されるのか

本書の冒頭に登場している木村真市議は、「豊中市が半分しか買えなかった土地が買われたので気になった」ので調べたところ「(森友学園が開校を予定していたのが)愛国的(極右的)な小学校だったので潰したかった」と言っています。

これもよくわからなくて、私立の小学校が、自分たちの価値観に基づいて教育を行おうとしている、しかもカリキュラム等を申請して開校を認められたものを、「愛国的だから」潰す、と市議が公言していいものなのだろうか。実際、土地の値下げの実態が明らかになる前に、森友学園自身が小学校の開校認可申請を取り下げてしまったわけですが。

反社会的な学校であれば当然、開校認可が通らないわけで、「認可を通した方」を問題にするならわかるのですが、学校自体を「潰さなあかん」と言って近隣にビラをまくのはどうなのか。結果的には小学校は開校されなかったわけですが、仮に開校して生徒が集まっていたら? 木村市議は「こんな小学校を作っていいのか!」と近隣に数万枚のビラをまき、反応があったと戦果を誇っていますが、近隣住民から「潰した方がいいような危険な学校」と印象付けられてしまった学校に通うことになる子供の気持ちは全く考えなかったのかと思うと、そんなに褒められたもんでもないような。

「沖縄の新聞は潰さなあかん」と言って問題視された作家もいましたが、学校に関しても思想を理由に「潰さなあかん」というのはいささか問題ではないかと。そこから問題は土地の値引きや政府・役人の関与に移っていったわけで、言っても詮無きことですが、気にはなります。

また、木村氏がまいたビラには「売却価格が非公表(であるのは問題だ)」とも書いているのですが、これもなんだかなという話で、森友学園と近畿財務局の間で「最終的な売却額を非公表」にしたのは、ごみや土壌汚染があったから安くなっているので、「値段によってごみや土壌汚染があったことがバレて、そんな土地に小学校を建てたのか、まだ汚染されているのではなどという風評被害が広がるのを心配したからだ」ということになっています。これ自体が疑わしいものになってしまってはいますが、仮に金額を公表していれば「驚くほど安くなっていておかしい!」という声が上がっていたであろうことは想像がつく。学園や近財からすれば「こういうことになるから売却額を隠してたんだよ」とも言えてしまうのではないか。

森友学園問題とは何だったのか

森友学園問題についてはアゴラでも記事を公開させてもらった(「森友学園騒動に「燃料」を投下したのは誰か」)のですが、語る人々の元々のポジションによって事件に関する認識が乖離しすぎていて、ほとんど交わることがないまま今に至っています。

私自身も手に入る限りできるだけの情報に目を通してきたのですが(この本も含む……)、報道のフレームアップはもちろんですが、近畿財務局の交渉記録も肝心なところが抜けていたり、当の本人である籠池夫妻のトリッキーな言動があったりして、公に出ている情報を突き合わせて、時系列を頭に入れ、事態の推移を加味しながら確認するだけでも大変です。

ただ、それだけにこの件について発言している「有識者」が、いかに情報不足、確認不足で、あるいは憶測やある一定方向に引っ張るためのブラフ的な物言いで話をしているか、ということはよくわかりました。

例えば、当初は「いわくつきの土地だから叩き売られた」という一言がかなり独り歩きしていましたが、その「いわく」という言葉で思い描いているものが全く違うのに、「ああ、あれですね」的に進んでいくとか。

あるいはこれは右派側に顕著でしたが、財務省の決裁文書改竄を「改竄ではない! たいしたことない! 土地売却の金額などは変えていないから問題ない! 麻生は所管の財務大臣だけど責任はない!」とするのはさすがに無理があるでしょう。朝日新聞の改竄報道第一報時にほとんど誤報だと決めつけるような論調を展開した人もいたように記憶しています。

片やこの本の末尾の「佐高信・鈴木邦男・福島瑞穂」による座談会のように、左派側でも状況証拠と印象論で盛った放談がまかり通ってしまうわけで、これはこれで問題なのは言うまでもありません。政権批判として使えるとなれば一方はこれだし、そうなると政権擁護派は何が何でも擁護するしで、双方異様な状態で報道や論評が展開していった一方、いったいこの事件は何だったのか、事実は置き去りになっているんじゃないでしょうか。

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梶井彩子
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