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《聖書-11》ソロモン

こんにちは。
今日はダヴィデ王の跡を継いだソロモンについて取り上げます。

ソロモン王の名裁判

ソロモンはダヴィデ王とバトシバの息子で、崩御直前のダヴィデ王から後継者指名されていました。しかし、ダヴィデ王の死後、異母兄も後継者として名乗りをあげ、王位継承争いが勃発します。彼を倒したことで、ソロモンは名実ともにダヴィデ王の後継者となりました。
神から即位の祝いに何欲しいか聞かれると、ソロモン王は『王にふさわしい知恵が欲しいです』と答え、神は喜びました。こうして授けられた知恵を駆使して名君と誉れ高い王となりますが、中でも有名なエピソードがあります。

あるとき、娼婦の女性2人は同時期に男の子を産みましたが、片方の赤子が母親に覆い被せられて窒息死してしまいます。赤子を殺してしまった娼婦は、もう片方の赤子を自分の子どもだと詐称します。相手としても当然認められないので、2人は争いになり、地方でも収まらないということで、ソロモン王自身が裁定を下すこととなったのです。
ソロモン王の御前に引き出されても、2人の母親の言い分は変わりません。ソロモン王は少し考えたあと、『赤子を真っ二つに裂いて、女たちに与えよ』と兵士に命じました。片方の母親はそれでもいいからしてくれと言いましたが、もう片方の母親は『この女にあげますから、この子を殺さないでください!』と懇願しました。母親たちの行動を見て、ソロモン王は後者が本当の母親であると判断し、裁定を下しました。

ニコラ・プッサン『ソロモンの審判』


このエピソードは日本にまで伝わり、徳川吉宗の側近大岡忠相をとりあげた『大岡政談』にまで影響を与えています。

シバの女王

イスラエルを繁栄に導いたソロモン王。正妃にはエジプトのファラオの娘を迎え、父と同じくたくさんの妃たちを抱えました。
妃ではありませんが、女性とのやり取りで聖書に記されているのは、『シバの女王』とのやり取りです。
シバとは現在のエチオピアあたりにあった国で、女王自らソロモン王と面会したいと、たくさんのお土産を抱えてやってきました。
念願のソロモン王と面会を果たした女王はさっそく謎を問いかけます。


1.木の貯水槽に鉄のつるべ、つるべは石を組み上げて、水を流す。
2.それは埃のように土から生まれ養われる。それは水のように流れるが家の中を照らす。
3.その頭を嵐が駆け抜け、大声で泣き叫ぶ。その頭は葦のよう。それは自由人にとって栄誉の種で、貧乏人には不名誉の種。死せる者には栄誉の種で、生ける者には不名誉の種。鳥にとっては喜びの種、魚にとっては嘆きの種。
タルグム・ジェーニー

という3つの謎を、ソロモン王は『コール墨の容器』、『ナフサ』、『亜麻』と即答します。女王は彼の智慧に感心し、2人は生涯にわたる友情を育みました。

ピオロ・デラ・フランチェスカ『聖十字架伝説』
シバの女王とソロモン王の謁見、エデンの園から移されたと伝わる木への礼拝が描かれている。この木はイエスの磔刑に使われたとされている。エチオピアの伝説では女王はソロモン王の子どもを出産し、エチオピア王家の祖先となったとされている。


ソロモン王の死後

シバの女王との交友エピソードからもわかるように、ソロモン王は交易国家としてイスラエルを繁栄させました。しかし、この政策は他の地域の信仰を容認することとなり、十戒の最大のタブー・『あなたは、わたしのほかに神があってはならない』を破ることになってしまったのです。
ソロモン王の死後、神の御加護を得られなくなったイスラエルは分裂します。北イスラエル王国と、南のユダ王国です。
北イスラエル王国はB.C722年、アッシリア帝国に滅ぼされました。ユダ王国はなんとかアッシリア帝国の属国として命脈を保っていましたが、B.C586年新バビロニアに滅ぼされてしまいました。このとき、イスラエルの人々がたくさん捕らえられ、新バビロニアの首都バビロンに連行されました。世にいう『バビロン捕囚』です。

バビロン捕囚

その後、アケメネス朝によって解放されて戻ってきて、ハスモン朝を築きますが、B.C63年共和制ローマに滅ぼされてしまいます。ユダヤ教の成立はこの頃です。ユダヤ人の多くが故郷の地を追われて、世界各地を流離い、『メシア(救世主)』の出現とイスラエル再建を求め続けることとなります。

ソロモン王についてはこれでおわります。
『ソロモン王の裁判』、我々日本人にとっては『大岡裁き』でなじみぶかいですね。
イスラエル王国の歴史としてはこれで一区切りですが、取り上げられなかった『ユーディトとスザンナ』について取り上げます。

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