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《日本史》道隆のこどもたち

こんにちは。
Ayaです。
大河ドラマ『光の君へ』では井浦新さん演じる道隆の栄華が最高潮に達しています。しかし、この栄華も長くは続きませんでした。
今日はその道隆のこどもたちについてまとめてみます。

(1)道頼(長庶子)

道隆の嫡男・伊周(演三浦翔平さん)は道隆の長男ではなく、実は異母兄たちがいました。それが道頼と頼親で、伊周が嫡男とされたのはその母貴子がたくさん妃候補となる娘たちを産んでいたためとされています。しかし、その一方で祖父・兼家には可愛がられ、その養子とされています。
そのため、昇進では伊周と常に差をつけられていました。道隆の死後すぐ、わずか25歳で亡くなりました。
とても美しい容姿をしていたようで、落窪物語の若君のモデルではないかと言われています。伊周と対立していた道長も、彼の死には残念がったといわれています。悲運な貴公子ですが、中関白家の没落を見ずに済んだのが幸いだったかもしれません。

(2)頼親

母は源満仲の娘で、伊周より2歳年上。道頼と同じく異母弟の伊周に昇進で抜かれ、さらに長徳の変後も不遇を囲いました。39歳で死去。

(3)伊周

いわずと知れた道隆の嫡男。三浦翔平さんの演技はいい感じの生意気感が出ていますが、清少納言は『こころの幼けるひと』と書いています。
道隆の死後、叔父の道長と対立していましたが、さらなる問題を起こします。当時通っていた為光の娘ところに他の男が通っていると思い込み、その相手を襲撃させたのです。
その相手がまさかの花山法皇で、事件は大事になります。花山法皇自身は出家の身であったことや恐ろしさのあまり口をつぐんでいましたが、噂に戸はたてられません。
結局一条天皇の命で流罪となりますが、仮病を使ったり、定子の御所に隠れるなど往生際の悪さが露呈します。これがいわゆる長徳の変です。
東三条院の病気によって大赦され帰京。妹定子が亡くなると遺体を抱きしめて泣き叫んだと言われています。
定子が遺した敦康親王がいたため、道長も彼を軽んずることができず、大納言以上大臣以下の准大臣として処遇しました。伊周はこの地位を自分で儀同三司と称しました。
しかし、その後、彰子に二皇子が生まれると、さすがに自身の没落を認めなくてはならなくなり、皇子たちの百日祝いにも奉仕しています。その後も立場の浮き沈みを繰り返しつつ、37歳で薨去。長女は頼宗の正室となりましたが、次女は彰子に仕える女房となってしまいました。
息子道雅は三条天皇の娘当子内親王との悲恋の後素行が悪化し、女性(彰子の女房。実は花山天皇のご落胤)を殺害する事件まで起こしました。この事件は結局有耶無耶にされましたが、人々は彼を荒三位と恐れて呼んでいました。

(4)定子(一条天皇后)

一条天皇の寵愛を独占し清少納言などと華やかなサロンを開いていた定子ですが、兄の事件で状況が一転します。兄と弟が目の前で逮捕されたショックから、自分で髪をきり出家してしまったのです。その後、第一内親王・修子内親王を出産。
一条天皇の強い願いから再び入内しますが、出家している后は前例がなく、人々からの冷たい視線に耐えて過ごします。定子以外の后たち(東三条院と円融天皇后遵子)もすでに出家していて神事が行えないという理由をこじつけ、道長は娘彰子の立后を強行します。このときから定子は皇后と呼ばれることとなります。待望の男子敦康親王を出産しますが、第二内親王・媄子内親王を出産後崩御。わずか25歳の若さでした。最愛の妃の死に一条天皇は嘆き悲しんだと言われています。
長女・修子内親王は一条天皇の長女として宮廷でも重んじられ、天寿を全うして54歳で亡くなりました。
末娘の媄子内親王は9歳で夭逝。敦康親王も立派な青年に成長しましたが、20歳の若さで薨去。彼の一人娘は頼通の養女となって後朱雀天皇に入内しましたが、男子には恵まれませんでした。
長徳の変以降の不遇の時代に、定子を励まそうとして清少納言はかつての栄華を枕草子にしるしました。そして現代まで、定子とその周辺の華やかな宮廷サロンは伝えられているのです。

(5)隆家

道隆の次男。当時から『さがくれ者(荒くれ者の意)』として有名でしたが、花山法皇襲撃事件も彼が実行犯でした。
兄とともに流罪となり、東三条院の大赦で帰京。
三条天皇の即位式では甥の立太子が実現できなかったため人々もさすがの隆家も気落ちしているだろうと噂していましたが、華美な正装で奉仕し人々の度肝を抜きました。その後眼病を患い、太宰府に名医がいると調べ自分から太宰府への異動を志願します。道長は反対しましたが、同じような眼病を患っていた三条天皇が同情して太宰権帥に任命します。現地では善政をひき豪族たちからも心腹されるようになり、1019年の刀伊の入寇では先陣を切って応戦、貴族らしからぬ武名を得ます。
帰京後に疱瘡が流行したため、隆家一行が持ち込んだのではと噂されましたが、その後も太宰権帥などに就任しています。同母兄妹では一番長命の66歳で薨去。
負けん気が強く豪快な性格のためか、中関白家を嫌っていた実資も彼を気にかけ、たびたび相談に乗っています。
彼の子孫は水無瀬家などとなり、幕末まで存続していました。

(6)原子(三条天皇女御)

当時東宮であった三条天皇に入内。姉定子と彼女の対面の場面は枕草子でもえがかれています。華やかな人柄で、三条天皇の寵愛を受けていました。しかし、入内からわずか三ヶ月後に兄伊周が失脚し、宮中から退出せざるをえなくなります。
その後、突然吐血して亡くなります。あまりにも不自然な死だったため、ライバル・娍子(済時の娘。三条天皇后)による毒殺では噂されていました。

(7)隆円

若くして出家し、枕草子には僧都の君として登場します。実家の没落後は姉定子を支え続け、その葬列には雪の中徒歩で従いました。
その後権大僧都となりますが、36歳で亡くなりました。

(8)敦道親王室

敦道親王(冷泉天皇の皇子。和泉式部の愛人)と結婚しましたが、実家の没落後離婚されます。その後は不明。

(9)御匣殿

同母兄妹の末妹で、定子に御匣殿別当として仕えていました。定子の崩御後その遺児たちの養育に携わるうち、一条天皇の寵愛を受けるようになります。しかし、妊ったまま亡くなります。相次ぐ愛妃の死に一条天皇の悲しみは深かったと言われています。

(10)周家

(3)〜(9)までは母が高階貴子ですが、彼からは母が異なります。
右衛門佐や舎人を務めていましたが、彼のものを盗もうした従者に殺害されます。(さすがに可哀想すぎる‥)

(11)周頼

彼が成人して出仕し始めるころには、すでに中関白家は没落していました。そのためか、仕事をサボりすぎて、殿上籍を抹消されています(いわゆるクビ)。その後は真面目に出仕していましたが、サボり癖が再発して殿上籍を抹消されました。ワケワカメ。

(12)妍子女房

自身は妍子に仕える女房でしたが、彼女の母の経歴が変わっていました。兼家の妾で綏子(三条天皇女御)の母だったのです。つまり、兼家との間に綏子を儲けた後別れ、道隆と関係を持って彼女を出産したということです。こんな歪な関係を持つのにも呆れますが、さらにびっくりするなのが、周知の事実だったらしいことです。
平安貴族のモラルってどうなってるのー!!

(13)好親

周頼と同じく、彼も成人したときには中関白家は没落していました。彼の母は三条天皇の乳母だったため周頼よりは出世の可能性がありましたが、やはりなかなか出世できず、若くして出家してしまいました。

以上、道隆のこどもたちでした。道長のこどもたちより数が多く、それぞれのキャラも強いので、長くなってしまいました。実父の妾に手を出すって光源氏かよ、道隆‥。
私の推し・アラタ道隆が見れるのもあとちょっとなので悲しいです‥。(ドラマの感想は後で書きます)








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