私は「挑戦している」のだろうか
このたび、『チームブリヂストン × note「#挑戦している君へ」コンテスト』にて入賞をいただきました。記事は現役の花火師さんを取材した時のものです。花火師の谷古宇さん、このコンテストを教えてくれた友人のKちゃん、応援してくださる方、記事を読んでくださった方、そしてコンテスト開催にあたりご尽力くださったみなさまに、この場をお借りして心より感謝を申し上げます。
記事はこちらです。
「日本の伝統文化継承に尽力しながらコロナ禍でも常に新しいことに挑む花火師に迫る」https://note.com/ayako0409/n/n681410f96b4e
改めて、「挑戦」ということを考えます。私は日々「挑戦している」のかしら。しているとしたら、何に挑んでいるのかしら。自己紹介もまじえて書いてみました。
挑戦という言葉を調べてみると
1.戦いや試合をいどむこと。
2.困難な物事や新しい記録などに立ち向かうこと。
とあります。なんだか、とても大きなものに挑むような感じ。人生一度きり、夢に向かって飛び立とう、なんてかっこいい感じ。でも、今になって思うんです。挑戦って、もっと地味で、全然かっこよくなくて、失敗の連続で、やめたいよーと涙したくなることなんだよなと。2020年が来るまでは「私はかっこよく挑戦し続ける!」 なんて心のどこかで思っていたんですよね。
私は日系航空会社で18年CAをしておりました。CAの仕事は天職だと思っていたのですが状況的に続けることが難しくなり、2019年に退社。その後接遇講師として活動を始めます。講師として仕事の幅が広がりそう、というところでコロナで仕事がストップし、緊急事態宣言中は娘とべったり一緒に過ごします。娘の学校が再開されたころから、なんとなく肌に異変を感じます。顔にプツプツと赤い発疹ができ始めました。病院に行って薬を処方されても症状は悪くなる一方。原因不明の症状に悩まされ、合わない薬で痒くて眠れない。どんどんひどくなり、ついには顔中に赤い発疹が広がります。いくつも病院を彷徨い、最終的に総合病院で皮膚を切り取る検査を受けて病名が判明します。顔面播種状粟粒性狼瘡(LMDF)という病名で、治療は飲み薬だけ、完治するまでに一年ほどかかるという原因不明の病気です。少し珍しい病気で判明するまでに1ヶ月以上かかり、病名がわかった時にはほっとしたような、でも複雑な思いでした。
日に日に顔の症状が悪化するというのは、ショックなものでした。それまで肌トラブルも特になく、肌がキレイなんて褒められることもあった私は、初めてのことにひどく動揺しました。
鏡を見なくなりました。人前に出られなくなりました。コロナということをいいことに家に閉じこもりました。なんで私はこんな目に遭うんだろう、私の何がいけなかったんだろう、自分を責めて泣いて、病と心の関係が書かれた本を読み漁り、「肌トラブルにいい」なんて情報をひたすら検索しまくりました。
薬を飲み始めて2ヶ月経って、薬に疑問を抱くようになりました。抗生物質の副作用で治す、という説明だったのですが「薬を飲んでさえいれば治ります。お化粧品も、食べ物も、何も気にすることはありません」主治医はこう言うんです。体って全部繋がっているのじゃないのかしら、それなのになんで薬さえ飲んでいれば、食べ物も化粧品も何を使ってもいいの? 薬の副作用で治すって、その副作用は私の体の他の部分にも影響するんじゃないの? そもそも主な作用で他の部分に副作用が出てもおかしくないんじゃないの?
幸い、痒くも痛くもありません。薬はやめよう、病院も行くのをやめよう、と決心しました。私の体を、薬任せ、お医者さん任せにしないで自分の決断で治したい。もし薬を飲み続けても治らなかったり、体に副作用が出たら、私はきっとお医者さんのせいにする。それは違う。薬を飲み続ける決心をしたのも自分、自分の体を守れるのも自分。ならば、自分で答えを出そう。
思い返せば、自分で決められずに人の意見に流されてばかりでした。人の顔色ばかりうかがって、嫌われないように、仕事のできる人、魅力的な人、キレイな人と思われるように見た目ばかり意識してカッコつけていました。自分の幸せを人に決めてもらっていました。それはつまり、自分の人生を生きていない、人に決めてもらった人生をなぞっているだけでした。
薬も通院もやめ、今に至ります。顔の症状はまだかんばしくありません。でも、自分で自分の体を守ると決めて、なにかおっきな味方が自分の中にいるような感覚を持てるようになったんですよね。自分の幸せは自分でつかむ、自分で決めた人生を生きる、と決心して、それまで人に嫌われるのが怖くて仕方なかったけれど、少しづつ怖くなくなってきた。カッコつけずにそのまんまの自分で居られるようになってきた。人前に出るのが怖くなくなってきた。
「挑戦」って、自分と向き合って、自分が「こわいよー」と思うことを乗り越えていくことなんだと今は解釈しています。必死で、半ベソかきながら。カッコ悪いし、苦しいし、ゴールもどこか分からなかったりするんだろうな。険しい山道をゼエゼエ言いながら黙々と登って、ふと気づくと頂上なのか分からないけど気持ちいい風が吹いて、見晴らしのいい景色が広がっていた、みたいな。
「自分で自分の幸せをつかむ」と決心して、ゼエゼエいいながら黙々と険しい山道を登り始めた私。やだー、人生100年ですって。今は何合目かしら。まだ登り始めたばかり、ゴールなんてぜんぜん見えません。でも、途中でかわいいお花を見つけたり、友達と小石を積み重ねてみたり、楽しみながら登っていきたい。きっと木の根っこにつまずきます。ヘビも出てくるかもしれない。でも、それも人生。それを何かいいことに変換させる想像力とユーモアを持ち合わせたい。
話は変わりますが「挑戦」という言葉は、男性のための言葉なんじゃないかなと思っています。「戦う」という漢字が使われていて、個人的には女性は「戦う」ことが向かないように思うのです。「過去の自分と戦う」というニュアンスもありなのかもしれませんが、私は過去のイジイジした自分も大切にしていたいなと思っています。そんな過去の私がいるからこそ、新たな一歩を踏み出すことが出来たのですから。
「挑戦」ってカッコ悪いこと。地味なこと。でも時々ゲラゲラ大笑いするような楽しいことや、感動で心震えるようなことが待っていたりする。よし、やるぞー、なんて意気込まずに、ながーい目でやってみよう。だって、人生、長いんですもの。でも人生は一度きり。
写真は「今夜はムリ〜」と思いながら作ったら一汁三菜が出来ちゃった夕飯。
終わり
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