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学徒動員(中島飛行場)昭和19年

昭和十九年、私は十七歳、予科三年になっていた。
国内は、日一日と不安な緊張感が高まっていた。
すべての贅沢、快楽的な物は禁止となった。歌舞伎座東京劇場、宝塚劇場閉鎖。高級料理店、待合カフェ、バーなど風俗営業を閉鎖した。ジャズも禁止された。

三月八日、日本軍はインパール作戦を開始。
インド東部マニプルスの州都インパール占領のための侵攻作戦であるが、この作戦は失敗に終わり、結局撤退せざるを得なかった。
この後日本軍は、サイパン玉砕、テニアン玉砕と続き、いよいよ日本本土が危険になって来た。
日本政府は、八月の閣議で国民総武装決定、竹槍訓練・長刀訓練を始めた。学童の集団疎開も開始した。
そして学徒勤労令、女子挺身勤労令を公布し、実行に移した。
人手不足は農村だけだはなく、軍需工場にも波及していったのだ。

私たち女子師範の生徒は、中島飛行場に配属され、毎日隊列を組んで通勤した。全寮制であったから、統制がとれていたのである。
飛行場に着くと、私は万力にネジを挟み、電気ドリルで穴をあける仕事を与えられ、一日中穴あけの仕事に没頭するのである。
こんなものが飛行機のどこに使われるのかも知らず、唯々お国のためになることを祈りながら、ドリルを回していた。
お昼になると、大豆入りの御飯と味噌汁や漬物を食べさせてくれるのである。食糧不足の折柄、これは嬉しかった。
夕方五時になると、又隊列を組んで粛々と帰寮するのである。

私達の作った部品で、ベテランの職工さんが組み立てた飛行機をテストパイロットの操縦士が実験するのであるが、ある時、飛び立ったと同時に空中分解してしまったのである。
パイロットは、命は助かったが、右腕を複雑骨折して不自由になり、身障者になってしまったとか・・・。まだ二十代だったそうだ。
或る職工さん曰く、「あの人はもう傷病兵だから、一生出征もせず、軍人恩給で暮らせるから、親は喜んでいるんじゃないかな」などと陰口を言うのである。
そんな考え方や見方もあるのかと、大人の世界を垣間見たりした。

寮に帰っても、お風呂に入れるわけでもない。お風呂は一週間に一回で、夏はタオルを水で濡らし、体を拭くだけである。
夕食は大豆まざりのおかゆが、茶飲み茶碗一杯こっきり。いつも空腹であった。
机に向かっても、勉強や読書にも身が入らず、疲れて眠くなるばかりであった。明日の勤労のために早寝した方が得策であると、部屋の上級生たちも早々と床につくのであった。

間もなく私は、栄養失調で、体中に痒いおできが出来て、夜も眠れなくなったので、寮長先生に申し出て、家に帰省させてもらった。勤労動員中の友人達には申し訳ないと思ったが、ちょっぴり嬉しかった。
家に帰り、母が買い溜めしてくれていたヤミ米や麦、煮干し、小豆などを食べて、二週間でぼつぼつ盛り上がったおできの痒みは治まった。
栄養不足とは怖いものであることがわかった。
農家の友達は時々、両親がおにぎりや干しいもなどを届けて下さるので、栄養失調にはならなかったのだ。ちょいちょい私もご相伴にあずかっていたが、お返しすることができず、心苦しく思っていた。

我が家も火事にならなかった昔のような農家であればよかったのに・・・と思ったりした。

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