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宇都宮借家横丁の昭和史(その1):離婚家族の話

■宇都宮借家横丁

私が小学生の頃に住んでいた町は、四条町といって、かつて釣り天井で有名な宇都宮城の城下町であった。
お城を中心にして、南北に通じた道が東から西の方向へ、一条通り、二条通り、三条通り、四条通りと、京都に倣って道をつけたのである。
その名残りが町名として残っているのである。
四条町の横道を入った所に、十軒の貸家があった。この貸家は中村源兵衛という味噌問屋の金持ちが建てたものである。この十軒の貸家には、いろいろな人が出たり入ったりして、借家住まいをしていた。
靴屋の番頭さん、会社員、県庁勤め、警察官、屋根屋さん、銀行員、下駄の鼻緒すげの内職をしている人、金持ちの二号さん、軍人さん、居酒屋勤めの人等々、こんな人たちが戦前・戦中・戦後を生き抜いた人間模様を描いていた。
ハッピーエンドの人、病気になってしまった人、苦労ばかりして亡くなられた人、働けど働けどあまり豊かになれない人ばかりだった。
「人生とは、重き荷を背負い、遠き道を行くが如し」
正にこの通りである。

■離婚家族の話

私の家の裏に、○井さんという奥さんが、男の子二人、女の子一人を連れて引っ越してきた。
長男六年生、次男三年生、女の子は五歳だったから、お母さんは四十歳前後の年齢だったのだろうと思う。
旦那さんが浮気をして、若い女の人を自宅に連れ込んで同居させたりしたので、怒り心頭に達し、とうとう離婚に踏み切ったのだそうだ。
離婚はしたが、両親はすでに亡く、歯科医をしていた弟の収入がまあまあ良かったので、弟をあてにしての離婚だった。しかし弟にも奥さんや子ども二人が居たのだから、姉さん親子を抱えるのは容易ではなかったと思う。一ヵ月や二ヵ月の短期間ならまだしも、何年もとなると、弟嫁に嫌われるのは当然のことだ。月初めになると、弟の嫁さんが封筒に入れた幾許かのお金を持ってやってきて、玄関の下駄箱の上に放り投げるように置き、
「お義姉さん、今月はこれだけで我慢して下さいね」と言い放って、顔も合わさず帰って行くのである。お義姉さんの○井さんの方も返事もせず、出ても行かないで、弟嫁の帰って行くのを伺っているのである。顔を合わせれば一触即発の危機になりかねないので、危機を避けているようであった。弟嫁が去った頃、やおら出て来て、封筒の中身を確かめ、
「こんなもんじゃ足りないわ」等と文句を言っている。
それでも弟に済まないと思うのか、それとも自分の不足分を補うためなのか、時々弟の診察室のお掃除を手伝ったり、庭掃除を手伝ったりしていた。

弟の家の庭には大きないちょうの木が二本あって、一本のメス木には秋になると沢山の銀杏の実がなるのだ。その実を拾って実から種子を取り出すまでは、とても臭い思いをして、水に浸して置き、どろどろの部分を捨てなければならない。そんな弟嫁の嫌がる仕事を手伝って、何とかして仲良くしようと努力しているようだった。

ある日、我が家にお茶飲みに見えて、本音を漏らした。
「弟の診察室のお掃除をしてやると、いい余禄があるんよ」と言う。
どういうことなのかよくよく聞いてみると面白い。
その当時は虫歯に被せる金属を金で被せたり、すきっ歯の人がその隙間を埋めたりする時、金を使うのがおしゃれの一つだった。金は食物の味を変えないし、柔らかいので、歯あたりが良いとも言われていた。これらの治療中に、患者の歯に合わせて形を整える時、ほんのわずか切り落とすことがあるのだそうだ。それを丁寧に拾い集めると、一ヵ月か二ヵ月で二グラムほどの金が集められるのだという。
それを技工士の所に持っていくと、幾らかの収入になるのだそうだ。
「塵も積もれば何とやらで、良い知恵でしょ。貧者の智恵かな」なんて自嘲ぎみに笑っていた。

そんな月日を過ごしている間に、小学生だった長男が新制中学を卒業し、自衛隊予備校に入学した。この学校は官費で自衛官としての教育をしてくれて、制服も無料だし、お小遣いも与えられ、全寮制なので、経費は一切かからないのだそうだ。
ある日、凛々しい制服姿で帰省し、軍隊調の敬礼で母親に「只今帰りました」と挨拶したので、母親の喜びは天にも昇る気持ちで、涙を流さんばかりだった。早速我が家にも見せに来た。父や母や私たちも「良かった、良かった」と共に喜んで、我が家にあった取っておきのもち米と小豆でお赤飯を炊き、分け合ってお祝いをした。貧しい戦後の楽しい近所付き合いの一日であった。

今頃はさぞかし立派な自衛官になっている事だろう。
弟の坊やの方は何になったか聞いていないが、末の女の子や母親も自衛官のお兄ちゃんに支えられ、やっと幸せになったのだ。もう裏の貸家からは引っ越して行ったのである。

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