様々な気づき
あれから...
自分の素直な感情を吐き出して
様々な事に気がついた自分がいる。
各種媒体に書いた事をシェアしようと思います。
世界にケンカを売っておいてなんですが
「丁寧と優しさ」って凄く大事だと思うんですよね。
わたしのどこが丁寧と優しさなんだよ?と思う方もきっと多い(かも知れない)
しかし、それが無いなら他者に何か言葉をかけるなんて事も無いわけです。
何度でも言いますが人間は1人では生きる事が
不可能です。人生の中でたくさんの方々に助けられています。感謝の気持ちを持ち、人と向き合う、自身と向き合うとは何なのか?
素直な気持ちと感情を言葉にしたならば
それは決して美しくもないし、気持ちの良いものではありません。
その言葉もどの言葉もわたしの中に在るもので、常に良い人間でいる事(在りたい)と思っていても人間はいれません。
自分に嘘をつかずに世界と向き合う事はとても難しい事です。
どれだけ思考や経験を重ねても、死ぬまでわたしは(わたし自身が)変化し続けると考えます。
今超えらないものも一歩踏み出す事がそのはじまりとなる。どんな時も感謝の気持ちは忘れずに日々を過ごしたいです。どれもが正直なわたしだと思うのです。
多かれ少なかれ、わたし達は他者の事を考えながら生きています。「考え過ぎる事」は自分自身を苦しめる1つの要素・要因でもあり「考えなさ過ぎる事」も良いとは言い難い。物事は常に表裏一体の2面性を持っています。
そしてわたし齋藤綾嘉は、その境界線上を生きているのだと痛感します。一長一短と言う言葉の様にどちらに偏っても「良くはない」それ程までに人間はバランスの生き物で在る事をわたしは心にとめてまた一歩踏み出そうと思います。
正直であれ、それはとても難しいが意味は在る。
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この世界に何が正解か?なんてないんだと思った。あったらあったでなんか切なくて悲しくて
つまらないんだよ。「正解」なんてない方が圧倒的に楽しくなるんだ。
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この言葉を久しぶりに聞いた感じがするのは
わたしだけだろうか?(なんか涙が溢れた)
「キミの好きなものは?」
聞かれたかった自分、聞いて欲しいと思っている
自分に気がついてハッとさせられた。
きっと長いだろうなぁ、まとまらんよなぁ
好きなものがありすぎて溢れて止まらないんだ。
それでも聞いてくれたら嬉しいし、どんなに
長くて上手く言えなくて時間かかっても言えたら
わたしは凄く楽しい気持ちなんだよな。
_____
考えている人
(それが好き・止まらない・止まれない)
色々な意味を含めてね。
そんな人に「考えるのやめなよ」って言うのはね
すっごく否定されてる感覚になるよ。
わたしはそう。
「たくさん考えてるから今日は休もう」とか
自分でも思ってるわけよね。
だから
考えてる人によかれと思って「考えない」
話しするのはハッキリ言って全然嬉しくないよ☺️
わたしが、ああ、この人マジで頑張り過ぎだよ🥺
考えが止まらなくて今苦しいのよね(きっと)と
思う時は「やめろ」じゃなくて「頑張ってるね」
って言ってから考えお休み(休憩)話しをする様にしてる。
人ってね、逸らしたくても背けたくても
それが出来なくて(様々な理由あり)考えてる時それが止まらない時がたくさんあるの。
頑張ってる事(考える事)否定されて
あなたは嬉しくなるかい?
大事な事、伝える事って「考え過ぎてしまうと」
のデメリット性や今はそうだよね、こうだよね
の話しでさ
「考えるのやめろ」
「見ない」「スルー」
それ、全部否定にしかなってないよ🤗
その手前のstand.fm深夜回は本当に皆さんに
聴いてみて欲しいわたしがいます。
昨日YouTube versionしか貼り付けてなかったのでこちらスタエフversionです。
長いし、長いんだけれどもわたしのしぼり出した
言葉や感情やなんやかんやを話してるんだよね。
自分で聴き返して1番思った事は
だから残す必要性がある
と言う事です。
「どんな自分も自分でしょ?」
「好きなら好き!それで良いじゃん!」
「やるかやらないか、決めるのは自分だ」
「RISCを背負ってもやりたいなら進め」
「やれないって思ってるならやれない。
当たり前。」
「一旦、横に置け」「山は登るだけじゃない」
「そこに岩があって邪魔なら
どかす方法を考えろ」
「自分に向き合う事でしか
超えられないものがある」
「他人はあなたの人生を生きれない。
自分の人生を生きれるのは自分だけだ」
「他責にするな、全て自己責任だ」
「好きは最強」
「楽しくないならやらなくていい」
「ただ笑っていたいんだ」
「それだけだよ」
「自分がわからないから考えるわたしがいる」
「自分を愛せないなら他人も愛せない」
「物事は簡単じゃない」
「生きる事は難しい」
「それでも生きろ!」
「生きてみなければわからない事が
先にはあるかも知れないだろう?」
「simple程、極みなもんはねぇ」
「言葉にならない言葉を叫べ!
我慢するな!死にたくなったっていい、
今は休むに全力疾走」
「人間皆、人間」
「最弱は最強」
「弱さを知り認めた時はじめて自分に向き合あえるようになる」
「0→1」
「難しいからやるんだろ?」
「誰もやってないから意味がある」
「世界の常識、固定概念なんでぶっ壊せ」
「自由はなんでもいいって事じゃないぞ
それ程責任が伴う事はないからな」
「人は指標に沿って生きている、
だから好きにしてなんて宇宙の中に放り出されるのと一緒でみんなどうしていいかわからないのも至極当然で、それが今の世界の現状だ」
「わたしみたいなヤツは枠をもたない」
「何もかもが狭くて苦しいんだ」
「宇宙にぽーんと浮かんで無限に考えていたい」
「金は使うな!頭を使え」
「いつでもチャンスは一度切り」
「次があると思うなよ」
「這い上がるゾンビ」
「やった事ないならまずやってから言え」
「人間は美しくない」
「醜い生きものだ」
「表裏一体、2面性」
「境界」
「人間にequal理論は存在しない」
「科学的根拠だけで全てわかった気になるな」
「人間は死ぬまで変化し続ける」
「葛藤」
「真逆、相反する、それも必要、それも必要ない、どっち?」「白黒ハッキリしてないんだよ」
「してないものを分けたがる」
「それが人間」
「歴史省いてんじゃねーよ」
「今日まで生きた全てが自分の歴史」
「どんな過去も必要だ」
「自分だけがつらい?は?みんなだよ」
...かぁー、たくさんあり過ぎるなぁ
わたしが言った「言葉」達よ...
いつか届け、必要な人に必要な形で。
意味はなくて意味はある。そうわたしは信じている。
風景構成法について、あれから新しい発見があったので記そうと思う。
_____
わたしは中井久夫の提唱したやり方ではなく
「枠を決めるかどうかさえ選択させる」と言う方法でテストしている。
一般的な風景構成法との違い
・枠を必ずしも描かなくて良い(選択の自由)
・サインペンではなくはじめから色鉛筆で描く
・色は塗っても塗らなくてもいい(選択の自由)
前回までの話しで(かなり前に遡る)
わたしはこの様な話しをしている。何故これらを
考えたか?と言うと自分自身でテストをしてみた際の気づきから来ている。
枠を決める→これは一般的であり枠をもたない人間は枠を描こうともしないし、描きたくない。
サインペン→これは後で色をつけると言う前提が
在るわけだが、そもそも感情表現に乏し場合、色などつけない(方が多いとわたしは思う)
ならばはじめから色鉛筆(色の選択肢)を持たせる事で黒一色で線を引くのか、または色は違うのか、「塗る」と言う工程の前に示される感情が
そこに反映されるのではないか?と思ったからだ。
「色は塗っても塗らなくてもいい」サインペンの
工程がないために「はじめに全てを説明する」と言う所も違いの1つだと感じる。テストをする本人は線を引く時に色をつけるかつけないかを決める事が出来る。
なお、このわたしの風景構成法を用いたテスト方法は統合失調症患者のみを対象とするものではない。(一般的に広く自らの心理を知る上で)使えるのではないか?からはじまっている。
先日、わたしが以前自分でテストしたもの
(描いたものをみて)これ何?と娘に言われた
事をきっかけにやってみる事になった。
そこでの気づきと考えから↓
娘は枠を描かないと言った。
順番に描いては行ったが、その途中で
(本来は後から付け足すもの)も描こうとした。
描き上がったものはまるでタロットか?と思うほどに(正位置・逆位置)逆さに描かれているものやその物体が到底それには見えない形で描かれていたものもあった。
その後「なんでもいいから描きたいものを描いてくれないか?」となった時(これはわたしが描いたものに線を引いてみたため)娘は真っ先に線を
描きはじめた。その縦と横の十字の線と中心の円を描いた後に描いたのは複数の文字の羅列だった。
ここでわたしは「やってしまった」感が
とても強くなった。
線を引くべきではなかったな
(娘の目の前で)
ここで娘にはこれまで存在しなかった
「潜入感」が発生した。そしてわたしがテスト
と言った事で、本来「描かれるであろうもの」が
そこに描かれないと言う事が起きてしまった。
その日は幾ら言ってもそれ以上描きたいようでは
なかったのでやめた。これまで「子供」を前提としてテストをしていなかったわたしは気がついた。
子供は見たものを吸収するし
言葉にも敏感だ。「病院」と言われれば
薬・注射等を連想するし、表現の仕方も
大人とは異なる。
・親が子にするのは良くない
・潜入感が植え付けられる
・決まり(ルール)に縛られる感覚が鋭くなり、結果的に描く事が出来なくなる。
描く順番やそのものの意味を解釈する
テストだが、もはやその順番とは何で
何故決まりきってしまうのか?と思ったわたしが
いた。(勿論、ただ意味もなく決まっているわけではないが)それで
どれだけのものが反映され
知る事が出来るのだろう?
と言う事実に気がついてしまった。
そもそも箱庭療法から派生している為
(安全な状態をつくり)自身を知るを
目的としているこのやり方では
枠を持たない人間、縛られたくない人間、自由が損なわれる恐れ
についてわたしは感じてしまった。
子供でも、大人でもそこに違和感を抱く事
なくそれを描けるのは、ある意味枠が存在
している人間だけなのだと知った。
わたしの娘はわたしの娘なだけあって
決まりきっていない事を好むし
やりたい様にやりたい事をする。
それに相反する様に察する能力が高く
良く言えば「気がつく子」であり
悪く言えば「顔色を伺う子」でもある。
それは娘が生まれてから今日までに生きる
中で形成された力と本来の気質のかけ合わせ
なんだろうな(とわたしは現時点では思っている)
「自由奔放で気にしていない様に見えて
いつでも楽しそう」これが娘のイメージなんだろうが「そうではない」と思うのは母親のわたしくらいなのだろうなと娘のチグハグさに胸を痛める瞬間がある。
人間にequal理論が通用しないとわたしが
そう強く思うのはわたしや娘を見ていて
「それでは説明がつかない」事が多すぎる
からだ。
そして改めて一般的に広く自らの心理を知る上で
を考えたならこの狭く決まりきった構造の中で知れる事は余り無い。
そして一般的でない(minorityな人間)にとっては逆効果ではないだろうか?まで思ってしまったわたしがいる。ならば、まだ(現状のやり方ではそれこそ意味がないのだが)ロールシャッハテストの方が
決まりきっていないんだよ...
(詳しくはロールシャッハの中に神をみたの記事を読んでみて下さい)
そして今回言いたい事はどっちが良いか?悪いか?ではなく、描く事によって観察・思考できる
心理についてです。
わたしも絶賛、先日まで描いていた理由が
自身の言葉にならない言葉だった様に
描くとは?
について改めて考えるきっかけになったのです。
ARTはARTであってARTではなく
本質的に描くとは、その人間の何かしらの
心理の反映だったりするわけで
それについて少し考えてみようと
この事をきっかけに思ったのです。
なんて感慨深いのだろう...
ではまた。
Human researcher, psychologist,
creator, digital artist: Ayaka Saitou
2024.11.6
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