アメリカの近現代史は、差別との闘いの歴史
【あやかんジャーナル 配信13】
岡本アヤカです。
今日はアメリカの大学の歴史の授業について、みなさんとシェアしますね。
私の専攻はコンピュータ・サイエンスですが、「US History」というクラスは一般教養科目として、全学部共通で必須のクラスなんです。
アメリカの歴史は、独立宣言が発せられた1776年から数えて、今年で249年。そのもっと前、メイフラワー号でピューリタンが到着した1620年から数えても、405年です。日本と比べたらとても短い歴史ですが、その短さゆえに、歴史の授業ではとても細かいところまで教わるんです。
為政者ではなく、市民目線での授業
日本の歴史の授業と比べて、こちらの授業が特徴的だなと思うのは、フォーカスの当て方が違う所です。日本だと、歴代将軍がどのような発令を出して、どんな戦が起きて、幕府がどのような対応をして、明治になり、天皇制に戻ってからは、政府がどのような政策を打ち出して...…といったように、基本的に体制側から歴史を学んでいきます。
それに対して、アメリカの授業では、アフリカから連れてこられた奴隷たちが、どのように制度に立ち向かっていき、どのような抵抗の方法を取ったのかについて、詳細に学んでいきます。リンカーンが1863年に奴隷解放宣言を出した後も、差別はどのような形で続き、そして1960年代に公民権運動が盛んになるまで、彼らが何をして社会を変えていったのか、すべて市民の側から歴史を総括していくんです。
しかも市民目線による歴史の講義は、グループごとにフォーカスを変えていき、アフリカ系、先住民、ヒスパニック系、中国系、イタリア系、ユダヤ人、日系人と、それぞれ視点を変えながら、レクチャーが続きます。
同じひとつの史実でも、人種によって見え方・捉え方が180度変わってくる。そのようにして歴史を多角的に眺めてみると、自分が生まれるよりずっと昔の出来事が、とたんに身近な出来事のように生き生きと感じられてくるから、授業は面白いんです。
たとえば、今、テレビをつければCNNやFOXが、メキシコからの不法移民問題について取り上げているけれど、じつは、この国でヒスパニックと呼ばれる人たちは、みんながみんなメキシコからやってきた人ではないと、歴史の授業で知りました。
みなさんはたぶん高校で、米墨戦争について習ったことがありましたよね?1846年から1848年まで続いた、アメリカ・メキシコ戦争というものです。今のテキサス州や、ニューメキシコ州、カリフォルニア州、アリゾナ州などは、その戦争が起こる前まではメキシコでした。しかしメキシコが戦争に敗れたことで、アメリカの州になりました。なので、これらの州に先祖代々暮らしていた人々は、敗戦を機に自分たちの町が突然「アメリカ」になり、彼らはやがて現在にも繋がる「移民」という位置づけになったんです。どこにも移動してないのに「移民」というのはおかしいですよね?
大学の授業では、先生が学生たちに、「アメリカ・メキシコ戦争は、アメリカによる侵略戦争だと思いますか?」と質問を投げかけ、ディベートが行われました。
アメリカの歴史のクラスでは、学生たちがどんよりと暗い顔をしている
アメリカの歴史の授業は、面白いけれど、同時にとても重苦しくもあります。
市民目線で見た歴史とは、言いかえれば、あらゆる支配と差別に対する戦いの歴史です。アメリカでは、肌の色の数だけ差別があり、それぞれの人種の人たちが、それぞれの形で支配され、そしてそれそれの闘い方で平等を勝ち取ってきた。今の私たちが、肌の色や出自に関係なく、同じ教室で肩を並べていられるのも、そうした先人たちの血の滲む努力があったからこそです。
そして授業では文字通り、先人たちの血が滲んだ出来事を事細かに開示していくんです。平等を勝ち取るまでの長い戦いの過程で、アフリカ系の人々が受けた数々の暴力や、先住民(ネイティヴ・アメリカン)の人たちが強要された、今の感覚ではあり得ないような残酷な同化政策、ナチスから逃げてきたユダヤ人が、アメリカで経験した差別と極度の貧困。そして日系人が戦時中に受けた性暴力と強制収容。大学の授業とはいえ、先生のレクチャーは聞くに堪えないものが多く、教科書も読むに堪えない内容が多く、ほかの学生たちと同様に私の顔も曇っていきます。
教室にはアフリカ系も、ヒスパニックも、ユダヤ系も、日本人の私も、ネイティヴ・アメリカンを家族に持つ人もいて、じつに様々なバックグラウンドの学生が授業を受けています。だからこそレクチャーの内容は、必ず誰かのルーツに直に関係する。みんな歴史の「当事者」たちの孫やひ孫たちであり、とても他人事とは思えません。
今では当たり前になった「多様性」という言葉は、アメリカの短いけれど濃い歴史の中では、ほんのつい最近できた概念なのだと、改めて感じるものがあります。
授業が終わったあとは、コークで癒される
歴史の授業が終わったあとは、きまってクラスメートたちとカフェテリアへ行きます。もう、なだれ込むといった雰囲気で、みんな悲惨な史実を聞き続けてぐったり疲れ切っています。
先ほどは面白いと書きましたが、アメリカで歴史のクラスを受けるということは、かなりの精神力を要します。
「とりあえず炭酸を飲もう。今の俺たちには、コークが必要だ」
毎回、誰かが必ずそう言い、みんな貪るようにソーダマシンの前で紙カップになみなみとコークやスプライトを注いでは、がぶ飲み状態になります。
200年前は支配する側だった人と、抵抗する側だった人たちが、こうして同じコークで癒されることは、はたして幸福なことなのか? 私にはもはや分かりません。アメリカの歴史の圧倒的な悲痛さは、学生から思考力を奪うほどです。
「どうしてアメリカでは、ゾンビ・ドラマが流行るか知ってるか?」
炭酸を飲もうと最初に呼びかけた白人男子が、みんなに疑問を投げかけました。彼は「Walking Dead」というドラマシリーズの話を始めました。「Walking Dead」は一時期、日本でも大ヒットして、何度も続編や番外編が制作されました。そのドラマの大成功以来、アメリカでは「ゾンビもの」なら何でも流行るという風潮になり、類似したドラマがいくつも作られています。
「俺さ、あれは、俺たちの罪悪感を象徴してると思うんだよ。だから必ずヒットするんだ」
男子は、ストローから唇を離すと、持論を展開し始めました。
「俺の祖先が昔々、先住民から土地を取り上げて、焼き殺した。彼らの『血』を薄めるために、先住民の女の子を無理やり白人と結婚させた。アフリカ系をリンチして殺した。メキシコ人から戦争で故郷を奪った。俺たちを恨んでいる人々の霊魂が、ゾンビという形になって帰ってきたんだよ。だから俺たちは、あのドラマから目が離せない。どんなにグロいホラーでも、惹きつけられてしまう。見なきゃいけないような気にさせられるんだ。俺たちのDNAが『過去を忘れるな』って警告してるんだ」
みんなが黙って男子を見つめていました。陰鬱なムードを変えようとコークを飲んでいるのに、これではさらに突き落とされた気分です。
私は反論しました。
「でも、あのドラマ、最後は必ず人間がゾンビをやっつけるよね? 生きている人間が必ず勝つの。それって、過去を反省する意味とは、違うような気がするけど…」
「もちろん違うさ。俺たちはゾンビを殺して、殺して、殺し続ける。過去から永遠に逃げ続けるんだ。逃げられないと分かっていても、そうするしかない。次々に湧き出てくるゾンビ相手にどんなに疲弊しても、支配者であり続けようとする人間の虚しさを、あのドラマは描いてるんだ」
男子は言い終えると、苦しそうに咳をしました。コークで喉を整えると、青白い額を手のひらで何度かこすり、それ以上は話しませんでした。
ほかの誰も、彼に返事を返しませんでした。
みんながすするストローの音だけが、円いテーブルに響いていました。