「仕事に行きたくない」「めんどくさい」病の治し方がわかったかもしれない話
「思考」と「身体」が一致してない
ある日、「無意識」の仕組みについて勉強していた時に、突然、気がついた。
思考「仕事に行きたくない」・身体「仕事に行く」
というチグハグな状態が、どれだけ自分の首を絞めているかということに。
いつも感じていた、「本当の自分」と「目の前の現実」の、歯車が噛み合ってないような、しっくりこない現実の原因はコレだった。
「思考」と「身体」が一致していないと、いつまでたっても自分にとって「しっくりこない」「なんか違う」チグハグな現実ばかりが創造されてしまう。
「思考」と「身体」が合っていれば、「無意識」が勝手に次第に自分にフィットした現実を創造し始める。
「現実」ではなく「意識」が先なのだと、もうほとんど量子力学が証明しているので、「現実創造」の理論をあれこれ言うのはここでは割愛する。
「選択」と「決断」
「思考」と「身体」と一致させるために避けて通れないステップが、「選択」と「決断」です。
ちまたで言われる、「決めると叶う」という仕組みも、これで腑に落ちた。
「決断」とは、「決めて断つ」ことだから、どちらかに決めたら、選ばない方は、「断ち切る」。
ただ「決める」だけでは不十分で、もう一方を「断つ」こともすごく重要。これができてないケースは多いのではないだろうか。
例えば、「仕事に行く」ことに決めたなら、「休みたい」という意識にフォーカスするのをやめる(=断つ)。
「休みたいな〜」
「体調不良で欠席するって会社に連絡すれば済むやん?」
と、なんやかんや言ってくる思考を断ち切る。
その日一日、どのように仕事を効率的に終わらせるかとか、タスク整理とか、スケジュールとか、エナジードリンクの力を借りるとか、
とにかく「仕事するモード」で自分を満たすこと。
仕事をすると決めたら、とにかくさっさと、余計なことを考えず、仕事に集中する。
「決断」とは、「腹から決める」ということであり、そうなると自然に、「覚悟をもった選択」が要求される。
「選択」に迷ったら
どちらかを選択するときに、恐れや不安がぶわっと湧き上がることがある。
そう言う時は、たいてい、どちらが「正しいか」を考えている。
「どちらが正しいか」と考えてしまうのは、いわば、誰もがもっている思考癖です。
幼い頃から、競争・試験・スコアリング・順位づけなど、常に勝ち負け、優劣、上下を意識させる価値観の中にさらされて生きてきたのだから、それは私たちの中に自然に根付いている。
でも、本来は「間違い」も「失敗」も存在しないのだと知っておくべき。
「選択の結果」というただの事実があるだけで、それ自体は良いも悪いもなく、さらに「選択の結果」がどうなるかなど、この時点では考える意味がまったくない。
結果が現れた時に、自分の「感情」がどのように動くのか
それだけ観察しておけばそれでOKで、「失敗」だの「成功」だの、そういうジャッジは要らない。
『また一つ、本当の自分を知るための材料(=経験)を得た』
ただそれだけ。
そして、そこで得た「経験」をもとに、より自分が心地いい感覚で居られる方を、再度「選択・決断」するという創造のループに入っていきます。
「選択の結果」は「失敗」とか「成功」とか言うつまらないものではなく、「経験」という価値あるデータとして「感情」とセットで自分に蓄積されていく。
「間違い」とか「失敗」とか、存在しないものを恐れる必要はない。
むしろ、本当に恐れるべきは、「思考」と「身体」を一致させられないことだ。
それはつまり、「決断できない」=「本当の自分を生きられない」ということ。自らの創造性を放棄しているということだから。
「選択」を恐れず、「選択」を愛しなさい。
覚悟をもって選択した、あなたの心からの選択を愛しなさい。
そして、どの瞬間も「今ここ」に集中して生きなさい。
今、この瞬間、自分は何をしているのか?
全身全霊をこめて、それをしているか?
常に「思考」と「身体」が一致しているかをチェックしておこう。
それが結局、「今この瞬間を生きる」ことになる。
相反する思考と、どう折り合いをつけるのか
どちらかを選んだとき、「でも」「だって」「嫌だ」ともう片方の自分が言い出すかもしれない。
そういう時は、そんな自分も、自分の一部として置いておき、「そうなんだ。でも私は、こっちを選ぶね」と言ってまた選び直せばいい。
陰陽太極図のように、物事というのは必ず相反する二つが同時に存在しているものだ。
だから、時に矛盾する思いを抱えていたりするのは、まったくもって健全である。選ばなかった方だって、自分の中に存在していてOKなのだ。
存在を認めた上で、自分がどちらの態度で在るのかを選択する。
「仕事に行きたくない」のも本心だし、「仕事に行くことで義務を全うする自分でありたい」「休むことで発生する様々な問題を回避したい」というのも本心。
「仕事に行く」のであれば、もう片方の自分になんと言われようと、「仕事に行く」と選択した自分自身の気持ちを尊重する。
本心なのだから、必ず尊重できるはず。
愛する人が、他の人にどう罵られていても、「こいつは良いやつだ」と胸を張って言う。そういう時の気持ちに似ている。
きっとさまざま理由から、私たちは、仕事に行くのがめんどくさくても、結局仕事に行くことを選択している。義務感か、お金のためか、安心のためか、人それぞれだけど、「仕事に行く」と選択した自分の気持ちに理解を示し、尊重する。逆もそう。「仕事に行かない」を選択した自分の気持ちを尊重する。どちらを取るのかは、本当にどちらでもいい。
そうすると選ばなかった方の自分もそのうち納得してくれて、静かになる。
どうしても嫌、仕事に行きたくないなら
時々、涙が出るほど気持ちが葛藤してどうにもならないこともあるかもしれない。
そう言う時は、「身体」を「思考」に合わせてみたらどうだろう。むりやりにでも、身体が仕事に行こうとするのを、意志の力でとめる。
時には「仕事に行かない」「仕事を休む」のだと、腹の底から選択すべき状況もあると思う。
そして覚悟を決めたなら、
「仕事にいかなきゃ、サボってると思われる」
「あとから面倒くさいよ〜」
と言ってくる思考を、断ち切らないとダメ。
選んだ方をきちんと尊重しよう。
思考に支配される必要はない。
自分が思考を支配するのだという意志をもつ。
あなたが、あなた自身の舵をとる。
そして、そういう状況の場合の多くは、このあと「仕事を辞めるのか」「続けるのか」の選択を迫られると思うが、同じように覚悟をもって選択すれば、どんな結果になろうと受け入れられるはず。
とにかく、避けるべきなのは、何度も言うようだけど、「思考」と「身体」合っていない状態だ。
本当の自分を生きるとは
自分のあり方を「選択」し、「決断」をして、「思考」と「身体」を一致させて、「今この瞬間」を生きる。
これが、できるだけ楽に生きられる、本当の自分で生きられる現実を創る道なんじゃないかと。
「思考」と「身体」を一致させないと、いつまで経っても本当の自分を生きることはできない。
自分にあった仕事に出会えないのも、「なんとなくここではない」と感じているのも、いつまでも「思考」と「身体」がズレているからだ。
いつまでも、歯車の噛み合わない、「ここじゃない」と思える現実が創造されてしまう。
無意識が「ここではない」と感じているなら、「ここではない」と感じる現実を創造してしまう。
「選択」して、
「決断」して、
「思考」と「身体」を一致させて、
「今この瞬間」を、生きていこう。