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生きているだけで十分なのに、なぜなにかしようとするのだろう。
生きているだけで十分なのに
なぜなにかしようとするのだろう。
生きるための行為だからだろうか。
いや、それ以上だろうか。
生まれたからには、生きているからには、自分という人間の存在をしっかりと余すことなく表現したいという欲求だったり、せっかく生きているのに辛いことばかりはしたくないという願望。
“存在“しているだけで、確実にこの世界へ小さな影響を与えている、それならば生きているだけで十分ではないか。
そんな心すらもなにかをしようとしている。
“ただ生きる”だけではない。
それぞれの心の奥底では、生まれたから、まだこうして生きているからこそ、そこにはなにかあると思うのだろうか。
わたしはわたし自身がこの考えにいつもとらわれているように感じる。
”何かあるはずだ“と思ったり、
“なにもないのかもしれない”とも思ったり。
それは自分の今回の人生への希望でもあり、
絶望でもある。
可能性への期待であり、悲痛な願いとも言える。
このままでは、あまりにも浮かばれない。
これではまだ終われない。
そんな大波がざぶんざぶん心を揺らす。
なにかを成し遂げることが人生だと思っているからなのか、
あるいは自分にも生きている、生かされている意味があると信じ込んでいるからなのかもしれない。
そして、それに相当する人間であるといつも思っている自分がいて、
強くそれを否定しながらも、結局のところ、自分は特別だときっと信じ込んでいるのかも。
これはきっと、生きることへの渇望であり現実への傲慢さでもある。
生きているだけでいいのだと思う心と同時に、腐りながらも、“生きていたい”という捨て去ることのできない強い思い。
それは“生きている”と心から実感するような、
自分が自分として在ること。
そうして生きることで、生きていることを全うできるのか、
そうして生きるための道のりこそが生きていることをすでに全うしているのか。
大きな調和の中で、生きて生かされる。
大きな流れの中で一部となりながら、その大きな流れを作る一人。
主役であり主役ではない。
だからこそ生きているだけで十分であり、
なにかに背中を押され続けるように、なにかを探してしまう。
大きな視点から見れば全てはそこにいるだけで十分で、
視点を深いところに下げていけばやはりなにかを与えられた存在とも言えるのかもしれない。
なにもしたくないのならなにもしなくてもいいとはそういうことかもしれず、
なにかしようと思うのならなにかしてみればいいのかもしれない。