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地の果てまで追いかけてでもいじめ抜きたい人の発想

そもそも実在の女性に辟易としています

まず、VTuberの多くは、典型的な男性向けの「萌え」キャラクターとしてデザインされています。その外見や性格設定は、男性視聴者の欲望に合わせられています。まるで女性が男性のために存在するかのような、従順で可愛らしい「理想の女性像」を押し付けています。これが、若い女性たちにどれほど有害か考えてみてください。

フェミニスト筋では鉄板の論法である「仮想と現実の同一視」

その外見や性格設定は、確かに男性視聴者の欲望に合わせられています。それは事実としてあるでしょうが、根本的な問題は前提が間違っているということ。そもそも「萌え」キャラクターと現実の女性とは切りわけられた存在としています。従って、現実の女性にそんなものを求めるつもりは毛頭なく、現実の女性に求めるつもりがないからこそ仮想の存在に投影するわけなんですけども。
創作物の女性に性的な関心があっても、生身の女性に性的関心が行くかというと必ずしもそうではありません、むしろ生身の女性は「住んでいる世界が違う」「手の届かない存在」だと割り切っていることもある。

萌えに傾倒する弱者男性にとってはそもそも現実の女性に何も期待しないばかりか、「自分の存在価値をただただ全否定するだけの敵」でしかない。上から目線でワガママ放題」「受け入れてもらいたければみんなから羨ましいと思ってもらえるだけの理想通りの完璧な男であれ」という態度に辟易して見限っています。率直に言うと、そんな女性、「パワハラ上司」や「クラッシャー上司」と大して変わらない存在で、できれば関わりたくはないんです。
むしろそうした現実の女性に対する「冷え切った」目こそがVTuberのような仮想の女性にのめり込む原因なのです。

もちろん「そうやって逃げる姿勢が甘ったれているんだ」と追い討ちをかけたいのでしょう。女性に関わりたければ相応の対価を払える人間であれということを押しつけたいのでしょうから。どうやって「足許を見て搾取するか」ということばかり考えているからのものではありませんか?

自由を求めて多様性を排除する合理主義のフェミニスト

皮肉にもVTuberにのめり込む男の方が多様性に満ちているのですが。VTuberと言っても多彩なキャラクターがいますから、如何に現実の女性の没個性化を物語るものでもあります。外見が違ってるだけで中身は「仁藤夢乃」や「たぬかな」の同類ばかりでしかないのなら、それは非常につまらない。
女性が自由になればなるほど合理的になり、自由に選べるのであれば最高のものを選びたいという、その各個の合理的な判断が「合成の誤謬」によって没個性化するという皮肉なもの。自由競争に委ねたら「『競争と淘汰』の果てに『寡占・独占』という形で多様性を失う」ということと同じオチが来るのです。

代替手段の台頭による脅威

代替手段に置き換えられると特に困るのが、男の足許を見て搾取したい「頂き女子」の本音じゃないでしょうか。代替手段に行かれると食い付いてくるカモがいなくなるから困るんですよ。だから童貞を「卒業できて一人前、風俗はノーカン」というロジックのホモソーシャルの価値観まで利用して、必死で女性に選ばれなければならないいう方向に誘導しつつ、市場原理と優生学まで持ち出してまで価値がないということを叩き込もうとするではありませんか。

この価値観が排除されたしまったらもっと現実の女性に関わりたくないと思う男は増えると思いますよ。一人前の男に認めてもらうことだけのために好きなことを我慢して女性に気に入られる努力をしている人が少なくないでしょうから。趣味に没頭するのが女性からキモいと思われたくなければ、趣味も持つことすらせず、ひたすら女性の理想像になるための自己研鑽に勤しむ、こんなつまらない人生、まっぴらご免ですもの。

だから代替手段の台頭によって生身の女性に関心がなくなることで、「生身の女性に『気に入られるために犠牲を払う』」という行動をしなくなることが男から搾取する上で一番困ることなんじゃないでしょうか。

逃げ道を作らせたくない

仮想現実は負け組の逃げ場という認識か

明らかに仮想現実の女性を、生身の女性から相手にされなかった負け組の拠り所という認識でいるんでしょう。だから潰してまで負け組を「生きるに値しない生命」と位置付けて徹底的に追い詰めたいというのを感じます。

仮想の場というのが、逃げ場になってしまうのが許せないんでしょう。逃げ道があると、逃げられて追い詰められないですものね。とことん追い詰めて自殺するまで追いやった瞬間が一番の快感なんじゃないでしょうか。まるでいじめから逃れるために転校していった所を、自殺まで追い込めなかったが悔しくて転校先まで追いかけていじめに行くような姿勢を感じます。

自殺するまで徹底的に追い込まないと「勝った気がしない」から他ならないのだと思いますが。そこまで自殺するまで追い詰めることに執念を燃やすのも敵を死に追いやることを以て勝利とし、そして「勝たなければ意味がない」という「白黒思考」の産物だと思いますけど。

こんな人たちほど自己責任論で詰るのが好きな人たちはいない

その弱者男性に対してすべては努力して自分を追い込んで成長しようとしなかった自己責任と落とし込むのが大好きなんですよね。
こういう人ほど、男に対してはとことん「精神論」で叩きたがる。評価基準たるゴールポストを動かせる側のほうが求められた結果を出せないのは努力しない甘ったれた根性のせいだと言うんだから、永久にゴールにたどり着けない競争を押しつけ、苦しんでいる様子を見て悦に入るような性根の悪さを感じます。

また、こんな人たちの腹の内では「合理的な根拠」さえあればいくらでも殺していいという性根も見え隠れします。合理性と人道を天秤にかけたら即答で合理性と答えるでしょう。これはサイコパスだからではなく、合理的であることが絶対的に正しいという「秩序に対する執着心」を伴う偏った認識を持っているためのものです。正しさの答えは合理性の中にしか存在しないとした「答えは一つしかない」という「バカの壁」もそびえ立っているのです。

ちなみに

自己責任論の元祖は…

困った人を助けずに見殺しにするばかりか邪魔者扱いして積極的にバッシングすることを正当化するという意味での「自己責任論」を言い出したのはあのColaboの不正契約の指示を出した現在東京都知事である「小池百合子」です。当時小泉内閣の環境大臣だった小池百合子がイラク人質事件の被害者を「対米追従という国策として大々的に進めようとしていた自衛隊のイラク派兵に対して『撤退ムードが作られて台無しになる』」というのを嫌悪して被害者を詰る意図で言い出したのがルーツ。
(直前にスペインでも同様の事態が起きており、スペインは軍の撤退を決めたため尚更神経質になっていた。なお、スペインはテロに屈したのではなく、国内で軍の撤退を求める世論が既にあったため、その事件をきっかけに「邦人の人命優先」という米国に対してもっともらしい名目を付けて退き際を見いだしたに過ぎない。従って日本政府は邦人の人命より米国への追従政策が優先だということになる。もっとも忌まわしき「日米地位協定」とその25条に基づいて協議機関として設置された「日米合同委員会」の都合上追従せざるを得ないのでもあるが…)
しかしながらあの「『自己責任論』の使い方」には後々国民が他人を見殺しにすることやいじめなどを正当化するための大義名分となって、価値観に強く根ざしている故に「元祖自己責任論」の小池百合子に対する敵意は相当に持っています。

日米地位協定ならぬ男女地位協定でも制定?

日米地位協定の話から思い出すかのように、今のフェミニストは女性の地位を日米地位協定下の米軍の様な地位に置きたいのかとも感じるわけでもあります。日米地位協定は第25条に基づき協議機関として設置した「日米合同委員会」を通して「国会も憲法も無視して米軍の都合で日本政府をコントロールできる」という主権を侵犯するとんでもないもの。日本が米国にいいなりなのは、この日米地位協定にあるわけなのです。
そして在日米兵が性犯罪を犯しても日本の法律で裁けないのもこの日米地位協定を背景にしているように、女性がキモいオジサンを殺害しても日本の刑法で裁けない、そういう地位を欲しがっているように映るんですよね、だからゆくゆくは「男女地位協定」なんてものを構想してそうで…


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