京アニ放火殺人事件で思うオタクのこと
本業の休憩時間、ニュース速報のツイートがTwitterに上がり、一部フォロワーが混乱していた。時間が経つに連れ、新たな情報が次々と入ってくる。しかし、それでも自身は冷静だった。それから数日、数ヶ月が経っても、1年が経っても。
京都アニメーションのスタジオで起きた放火殺人事件は、30人を超える犠牲者を出し、犯人も未だに病院にいると云う。その真相はやがて解明するだろうから、ここでは触れない。
自身は、一つの共感も得られないことは最初から知っていたが、幾つか思うことは有った。自身もオタクだが、そのオタクから或る意味同族を見て思うこと。今回は敢えて書く。
まず、被害者の実名を、一部の反対を押し切る形で京都府警は公表した。この瞬間、京都府警に対する非難が殺到したが、公表のタイミングは悪かったものの、それ自体は正しかったと思っている。そして、報道機関の方針にも賛同する。
「人数だけでも十分事件の残忍さは伝えられる。名前を出さないと伝えられないのは書き手のスキルの問題」
と声を荒げる連中もいるが、この国は日本だが海外での基本は実名だ。それは記事に当事者の名前と云う証拠を出すことで、信憑性を持たせることになる。特に、こう云う社会的に大きな衝撃を与えた事件なら尚更だ。
日本ではプライバシーへの懸念から、特にネット上では匿名が好まれる。2ちゃんねるの台頭からだと思うが、だからTwitterが好まれ、Facebookは今ひとつ疎まれる。
被害者のプライバシーについては刑法で対応するなどしつつ、実名報道をするのが一番だと思っている。
しかしこれも、京アニ放火事件まで大して聞かなかった意見だ。今は一挙手一投足些細な乱れさえも容認されない社会だから、このあたりは扱い方が相当シビアだ。
次に挙げるのは、スタジオ跡地の問題だ。町内会が、跡地に慰霊碑や公園を整備しないよう京アニ側に要望を出したことについて、一部からは批判的な意見が相次いだ。これに関しても、町内会の意見としては当然だと思っている。
「公園を整備し、慰霊碑を建てる。それが社会を震撼させた事件を風化させぬことにつながる」
らしい。しかし、整備した結果どうなるか。スタジオ跡と云うことで
「京アニの名作を多数生んだ聖地」
とするファンが慰霊を口実に聖地巡礼するのではないか、との懸念が有るのだろう。簡単に言えば騒音、そして場合によっては放置して帰った供え物の処分問題が有る。
そもそも、「聖地」と云うのはファンが関連性を見つけて勝手に決めるケースが多く、それが地元の住人にとって好ましいかは住人次第だ。
「こうして人が集まれば、犠牲者も報われるはず。だから目を瞑れ」
は、あまりにも暴論だ。騒音などへの懸念を理由に反対しても
「霊を慰める心も忘れた寂しい奴ら。排他的な京都らしい」
と吐かれるだけだ。
そう云うオタクにとって、地元住人などとの兼ね合いなど別にどうでもよい。寧ろ
「この地は聖地巡礼で金が回っているようなものだ。俺らが来なければここまで保っていない」
と来訪者が自らを地域の救世主であるかのように自慢する。元の地域を尊重しない連中の言い分に耳を傾ける必要は無い。
寧ろ、聖地と崇める者が聖地認定したいものとどう向き合うかの話だ。ただでさえ見知らぬ者が、連日多寡を問わず町内に押し寄せる光景は、地元の人間から見て一種の恐怖でしかない。
しかし、それは恐らく巡礼希望者にはどうだってよいのだろう。自分たちの拠り所が有ればいいのだから。
自身は元々アニメを見ないため、京アニ作品への思い入れは無い。その意味ではこの件は完全に外側の人間なのだが、事件後の動きを見ていると、何かモヤモヤする。
犠牲者に寄り添おうとするのは感心するが、オタク特有の心理と言えなくもない、少しでも異なる意には容赦しない感があまりに強い。それが露骨過ぎるように見えた。
だから今回、フォロワーが混乱し、騒いでいた事件から1年を機に、書いてみようと思った。
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