日々修行。摂心会:連続朝坐禅5日目経過
12月1日から朝の坐禅会に参加しています。
お釈迦様が12月1日から1週間通して坐禅をされ、悟りを開いたという所以からきているそうです。
本日5日目を終えました。
冬の寒い時期ですから、朝起きるときも「えいっ」と気合を入れないと温かい布団から出るのが辛くなってきました。
基本的には朝4時に起きて、身支度と食事の準備までを終え、5:30に家を出るというペースで過ごしています。
そして6時から40分間の坐禅。
帰宅する頃には、主人と息子は朝食を終えており、下の娘がだらだらと朝食をとっている最中にちょうど居合わせるという感じです。
母親が朝いない。
これってはじめは少しハードルがありました。
1日くらいならともかく、8日間ですから、特に主人の負担が増えてしまいます。
幸い主人が私の気持ちを理解してくれていて、母親が早朝に出かけることを許してくれるという環境があってこそ自由にさせていただいています。
周りの方の話を聞きますと、どうしても家族の手前自由にできないようなケースが多いようです。
その点我が家の場合は、主人がもうあきらめたのか、もともとの人間的な器がかなり大きいのか、いずれにせよ比較的ゆるゆると好きなことをさせてもらっているという感じです。
家族には感謝です。
さて、5日目を終えたわけですが、あいかわらず座禅中は色々な思考が頭をよぎります。
ついついその思考を追いかけてしまいがちではありますが、そこを追わないことが大切なことであると以前教えていただきました。
思考が出てくるけれど、まずはそんな自分を受け入れ、批判はしない。
いちいち自分を責めていたらいつまでも心のほこりなんて取れないですもんね。
思考が出てきたら、「あぁ、今思考が出てきたな。以上。」でいいんです。
わざわざ自分を責める口実を作ることはありません。
見えるものは見えるまま。見ようとしない。
聞こえてくるものは聞こえたまま。聞こうとしない。
それだけ。
様々な情報の中から何か特定のものに注目し、選択するのは自分です。
「選ぶ」自由もあれば、「選ばない」という自由もある。
坐禅中は思考することを自分で「選ばない」ということを「選ぶ」という意識で臨んでいます。
しかし、なかなか普段の癖が邪魔をしてついつい思考を追って、ふくらませてしまっているときもある。
でもそこに気付いたら、呼吸に意識を戻す。
その繰り返しです。
できていないところはあれども、それでも自分なりの境地を目指して進む。
これが修行なんだろうなと思います。
ご一緒させていただいている皆様方の中には、なんと50年もこのお寺の坐禅に通っておられるという強者もいらっしゃいます。
確かにもう仙人・達人のオーラがプンプンします。
そして非常に表面上は穏やかでありながら、軸が通っていて、かつ人間的な深みが感じられますが、私もそういう風に人間性がにじみ出るほどの器になれるよう日々精進してまいります。
残り3日間も挑みます。
サポートしてくれなんて滅相もありません。 もしそんな奇特な殿方・ご婦人がいらっしゃった場合は、感謝しすぎて鼻血が出ることでしょう。(出なかったらすみません) そして大切なお気持ちは ”恩送り” に使わせていただきます。愉しくて温かい ”和” が広がりますように。