色で世界を見る
*このエッセイは2022年5月刊行予定の書籍「言葉は身体は心は世界」に収録されています。
画像クレジット:内田涼《interchange #2》
美大受験予備校に通っていた高校時代、赤白ギンガムの布の上に置かれた大きなガラスびん、中にはセロリ、周りには木製、白黒の発泡スチロール、というモチーフを描く鉛筆デッサンの課題があった。工業製品と有機物、質感や色を描き分ける狙いがあるこの課題の講評の場で、私が描いた絵は「白黒の世界なのに色を感じる」と言われた。他の人が黒い発泡スチロールとギンガムの赤、時にセロリでさえほぼ似た明度で描いていたのに対して、私の描いた絵ははっきりと黒と赤が分かれていたからだ。
人生の最も古い記憶の光景は色彩に呼び起こされる。二歳半で日本からニューヨークに引っ越した時、赤茶のレンガ造りの家の玄関入ってすぐ一面に広がっていた緑色の絨毯、白い壁、奥にあった赤と黒の掃除機、深茶の家具(本当に不思議な話なのだが、二歳当時の自分の地面に近い目線ではなく、なぜか部屋の天井付近から俯瞰する視点で再生される)。この当時から自分の外側に存在する世界を色彩として捉える、鋭敏さの芽があったのかもしれない。それにしても、生まれ持ったものと足並み揃えて誕生してないはずの「彩恵」という名前がおそろしいほど性質と合致しすぎていて、我ながらぞくぞくしてしまう。
明滅するいろどり
これから書く内容は呼吸や食事や睡眠ほど至極当然で、特筆するまでもない話だと思いながら、案外そうでもない可能性にも賭けてみる。自分にとってはたわいのない生理現象でも、呼吸の仕方ひとつとっても色んな身体の使い方があるのと同じで、みんなのものだと思ったものほど極個人的あるいは逆然りだったりするのだろう。
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