信州Day151
朝予約を入れていた、冬タイヤへの履き替えに。
一人でパジェロ・ミニに乗って出かける。国道20号を、時に煽り、煽られながら進む朝時間。
シンエイ自動車のスタッフさんたちは、無口だが見ていて気持ちの良いやり取りをしながらてきぱきと仕事を進めていて、職人集団ていいなあと改めて思う。例えば共有の道具がいくつかあるらしく、それが他の車で使われていても、視線だけで次に回ってくるのだ。他の車でどういう工程にさしかかっているかを、目の端で捉えているのかなと思う。
質問をしないと何も教えてもらえずに支払いとなるので、今回は「四駆にチェンジした時、ハンドルを切るとゴゴゴっと引っかかる手ごたえがあるのですが」と言ったら、「それが普通です。ロックが掛かるので」と。はい。解りました。安心しました。そして、オイルも交換お願いいたします。じょじょじょっとオイルが抜かれ、ごぼごぼと上から入れられ、はずされた夏タイヤはてきぱきと積み込まれ、中古で用意してもらった冬タイヤもきれいに洗ってもらって、さっぱりして、明朗会計。3万円弱。タイヤ1個につき作業料金は500円だったから、これから先2000円で履き替えできるのか。夫はいつももっと掛かるようで、羨ましがられた。
シンエイの皆さんからは現場と直結ゆえの車への愛がお金のやりとりにも感じられて、払う時も納得できて、好きだ。正規の代理店で買った夫のNboxは至れり尽くせりのサービスがついていて、一度訪問すると1時間は椅子を立てないという感じだけれど、シンエイはいわば町の腕のいい整体やさんみたいな感じ。とっとっとっと整備が終わって無駄な時間が一切ない。
そのあと諏訪湖をぐるりと回って諏訪大社の下社へ。
信州に暮らし始めたというのにまだおとずれていなかった。
いまいち、諏訪湖まわりに広がる上社と下社の配置もわかっておらず、どこが本社なのかもよくわからずにいた。
秋宮と春宮梯子をして、そこにいらっしゃる神のことなど読んですこしずつわかってきたかもしれない。とにかく、諏訪湖は大きな鏡のような存在だし、ヒトはとにかく生殖してきたのだなという感じ。
最初に秋宮に入って、少しピンと来なかったので、春宮に歩いてみようとおもったら、そこは「下諏訪宿」という宿場町だったのだ。
宿場町が大好きなわたしは、資料館など無料なところへ入りびたり、結局1か所に1時間ほどもいただろうか。旅籠や商店であったその建築を味わって、資料の文字を読んで、昔の人のサービスなどに感心しているうちに元気が湧いてくる。江戸の活力がしみ込んでくるよう。それにしても、恐らく個人で手に入れた元旅籠などを、観光と後学のために公開してくれているのではないかという場所もあり、そのおおらかさに心より感謝する。
中村屋という絹織物商店であった伏見屋邸ではたった一人の見学者であるわたしのために法被をきたご主人が2階から蔵からご案内くださり、初めての諏訪の冬を励ましていただき、しまいには湖東笹原の話になったりと、嬉しい出会いだった。物流のハブでもあった宿場町のようで、(それは黒曜石を交易していた縄文時代にまでさかのぼるハブとしての歴史らしい)、豪商とはいかないまでもよい建物を構えた中村屋の2階は、人を泊めたのだろうなという造りだった。
そのまま春宮へ、幣拝殿で二礼したときふと落ち着いたハラがあって、礼拝とは不思議な型だなと思う。神道は二礼、二拍手、一礼。拍手が潔く響くと、通じた気がしてすっきりする。わたしは掌がずれることが多く、音が濁る。手をうまく叩けるような心身にしたいと思う。
筒粥殿というのがいいな。
前から、おにぎりより粥を炊くほうに惹かれていた。
早朝、粥が炊かれた釜があって、そこに地元のお漬物が添えられたらよいなと。筒粥殿では、1月14日の夜から15日にかけて神官が夜なべで囲炉裏を囲み、粥を筒に入れて農作と暮らしの吉凶を占うそうな。神官、料理もおできになるのね。
正面から大路を通って、また秋宮に戻る。このあたりの道は広く、看板建築が並んでいるけれどシャッターが閉まっているところも多かった。
観光マップで見るより閑かな町だったけれど、中山道へ戻る道沿いに「しもすわ今昔館おいでや」を見つけ、諏訪郡人になる前から暦から気にしていた「時計工房儀象堂」
https://konjakukan-oideya.jp/%E5%84%80%E8%B1%A1%E5%A0%82/
を訪れることができた。
中庭の水運儀象台ととうとう対面。奇しくも、わたしが1日1回のデモンストレーションが始まるというタイミング(14時)で、人形の動きと解説を独り占め。そのあと、儀象台のメンテナンスに入られた先生のようなスタッフさんから、「…解説しましょうか?興味がおありのようですから…」と声をかけられるまでまた1時間弱ほど仔細に見てしまう。
時と天体がつながっているというのは知っていても、それを目の前に、「時計と天体儀をつなげて置いて」見せられるとやはり古代中国の叡智はホリスティックだと感心する。そして、すべては戦に勝つというところに目的があって、それもすごい。諏訪大社も戦の神様だそうですけれど。
宇宙は皇帝のすみか。北極星は皇帝の乗り物。その周りには賢い臣下がいて(ひしゃくは七賢)なぜか「罰」という星があったり。
下の水車によって生まれた動力が軸を伝わって天体儀に来ているけれど、その音も大きい。
わたしの疑問は漏刻の、サイフォンの真空をどんな素材で作ったのだろうという(竹筒ではなさそう)ことと、流れ出す水の量を一刻に合わせないといけなかったと思うけれど、どうやって口径を決めたのかということ。
前者は分からず、後者も「今も昔もトライアンドエラーだったんでは」とのこと。大変な回数なんでは。それにしても誤差は少なかったそう。目の前の水運儀象台の誤差は日時計に合わせ調整されているという、セイコー始めこれを建設する企業のリベラルアーツ精神がすごい。
時刻に加えて「分」が必要になったのは、汽車が発車する時刻表を作るためということ。
おもり、歯車、振り子、ぜんまい、と来て「クオーツ」そういえば水晶の振動を利用することになったこと。
いろいろな流れを知った。
人は時を正しく刻むことにとりつかれてきたけれど、江戸時代のアナログな時もいいなと思う。日の出と日の入りの間を均等に割るから、冬至の夜の一刻は夏のほぼ2倍。ヒトの1秒の長さが長くなるということ。
同じ敷地内の黒曜石の発掘調査展示室もとっぷりと除き、裏の古墳の石室を目の前に絶句して貸し切り状態の施設をやっと退館。私一人のためにどこも暖房がごうごうとついていて、ビデオも繰り返し再生されていて。
もう一度秋宮に戻り、礼をして、岡谷経由で20号を飛ばして帰る。
綿半で法人ゴウカカードというのをつくり、少し安く大工道具などが買えるようになった。
少しずつ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?