絵本は情報ではない|0歳から童話館ぶっくくらぶを始める理由
去年の7月から、童話館ぶっくくらぶを利用している。4歳の長男、2歳の次男にそれぞれ1冊ずつ、毎月絵本が届く。1年経って、8月にはひとつ上のコースに進級した。
三男は22日で生後3ヶ月になる。以前童話館の方に「0歳は3ヶ月ごろから始める人が多い」と伺ったので、わが家も来月から0歳向けの配本(たんぽぽコース)を追加してもらうことにした。
自分では選ばない(選べない、出会えない)けれど質の良い絵本を定期的に届けてもらえる。それがぶっくくらぶの一番いいところ。
もちろん(子どもが何度も読んで欲しがるかという意味で)当たり外れはある。それでも、書店では目にしたことのない絵本を「もういっかい!」と何度も一緒に楽しめたときは、「うん、ぶっくくらぶをやっていてよかったな」と思う。
最近の配本だと、このあたりがお気に入り。
長男向け。届いたその日に3回は読んだ。いろんな動物が出てくるのが楽しいらしい。ワニのエサを見て「わ、みてみてさかながいっぱいだよ!」。
ストーリー自体は人として大切なことで、それがどれほど響いているかはわからないけれど、楽しんでくれている。
長男向け。タイトルを見て、「??」となる。想像もしなかったストーリー。大胆で、勢いがあって、読み聞かせている私も楽しい。最後は熱が入って「ジャイアント!ジャム!ハチ!サンド!」と大声で言うと子どもたちもゲラゲラ笑ってくれる。
次男向け。最近、谷川俊太郎にやられっぱなしである。こないだなんて書店で『生きる』を立ち読みしただけで涙が溢れてしまい困った。なんて自由なんだ、世界はこんなにも自由なんだ、と静かに感動しながら読み聞かせをしている。それを知ってか知らずか、「もーもーちゃい!(もういっかい!)」と言ってくれる次男。
一応年齢別にはなっているけれど、長男が次男の絵本を気に入ることもあるし、その逆もある。
長男向けだったが、次男の方が気に入ってよく「もーもーちゃい!」している。表紙だけは見たことがあって、この怪獣が外見によらず優しくて…みたいな話かなと思っていたら全然違った。次男は一緒に「がおー」するのが楽しいらしい。
絵本は情報ではない
4年前、初めての赤ちゃんに「これでいいのかな…?」と試行錯誤しながら読み聞かせをしていたとき、気付いた。
絵本ってすごい。
言葉が話せなくても、手を伸ばして絵本にふれるだけで、母親は「これがええんやね」と絵を見せて、望む言葉を発し、歌を歌ってくれる。
絵がきれい、話が面白い云々ではなく、そうして親子で過ごす時間そのものが「絵本」なのだな、と気付いた。
あたたかい膝に乗せてもらえる。優しい声で話してくれる。自分だけのために時間を使ってくれる。一緒に「あれ、これはなんやろね」と物語に入ってくれる。それらをすべてを含めての「絵本」なのだ。
もう一つ。私に気づきをくれた絵本がある。
吉祥寺の百年という古本屋さんで見つけた絵本。この絵本、かなり変なのだ。
普通は「といって」だろう。「っていって」と書く絵本、というか本は初めて見た。
そして「なんのようか ここのか とおか」。ひこうきはずっとこの調子である。
長い。長過ぎる。
「そういうわけにはいきません。ひこうきがとぶには、いきさきがひつようなのです」だけで伝わるのに。
そう思って、当初は適当に飛ばして読んでいた。長すぎるっちゅーねん。
でも、絵本や子どもについての本を何冊も読むうちに、考えが変わった。
言葉とは、元来語るものであった。目で見るのではなく、耳で聞くものであった。
ハッとした。私は、勝手に情報だけをかいつまんで伝えようとしていたのではないか?それはこの絵本の魅力を、力を損なうものではないか?言い回しや音の楽しさを含めてこその、この物語ではないか?
それからは、『うみちゃんのまど』の全文を読み上げるようにした。そうすると俄然楽しくなった。楽しく読んでいると、子どもも意味がわからないなりにそのまま受け止めて楽しんでくれる。絵本の奥深さを知った。
絵本は情報ではない。物語である。
0歳から童話館ぶっくくらぶを始める理由
そうした唯一無二の時間を、三男とも楽しみたくなった。すでに赤ちゃん向けの絵本は自宅にいくらかあるが、自分で選んだものばかりだ。ぶっくくらぶがどんな世界に出会わせてくれるのか、いまから楽しみで仕方がない。
以前書いたように、「子どもと絵本を読む時間は尊い、愛しいものだ」と感じられるようになるのがぶっくくらぶの素晴らしいところだと思う。ぶっくくらぶがなければ、読み聞かせに対してここまで特別な感情を抱かなかったに違いない。
来月からは毎月3冊、ぶっくくらぶから届くようになる。本棚は限られているので整理しつつにはなるけれど、3人そろって15歳まで続けられたらいいな。