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父の後悔をはじめて聞いた。

東京の父が用事を兼ねて、我が家に1週間ほどきました。

父はいつも、私と2人だけというシチュエーションになると饒舌になります。それは”素敵な仲良し親子”という感じとはちょっと違って、今までなんとなくお互いに遠慮があったり、深入りしないようにしていた関係を父が取り戻しにきているような感じです。

強くて大きな存在だった。

私は神戸で生まれ、父の転勤で6歳の時に東京に引っ越しました。

まだまだお笑いのブームが来ていなかったあの頃、

関西弁?神戸弁?が抜けなかった私は、後から「あれ、いじめだったのでは?」と思うようなことや(気づいていなかったというより必死に立ち向かって行っていた)、

学芸会のセリフの練習中に先生から「発音がおかしいからもう一度」と皆の前で立たされて何度も言い直させられたりということがあったり、

学校は好きではない場所でした。

そんな学校嫌いの私に、出勤する前の父が毎頭言ってくれる「姿は見えなくても、お父さんはいつも後ろにいるから大丈夫」という言葉がをお守りにしていたから、折れずにいられたような気がします。父は、小さい頃の私の心強い存在でした。

反抗期になるといろいろなことが見えてくるわけで

今の世界を飛び出したいという考えで、中高一貫校に入り、少し広い世界を見るようになると、反抗期を迎えたこともあって、どんどん父が小さく見えるようになってきました。

父だけでなく母も「人にギブする」ということをあまりせず(私は母方の祖母に似てギブしたがりお買い物したがりだった)、

「今あるものを守る」、「損をしたくない」、さらに父からは「人を信じるな」とも言われ、

家のことやお金のことなどは「子どもは知らなくていい」と言いながら、服装からお小遣いの使い方まで、子ども達を徹底的に管理していたので、

私にとっての家は、窮屈で居心地がいいものではありませんでした。

生きづらかったであろう父。

父のことを書けば、

警察官で転勤の多かった祖父と同行する祖母の一人っ子として育てられ、高校生からは親戚の家に預けられ、大学から一人暮らしをしていたそうですが、

・父の父親(私の祖父)は孫の私が3歳くらいの頃から「信じられるのは家族だけだよ」と言っていたくらいなので、きっと父もそう教え込まれていただろうこと

・親戚に預けられていた間、必死で生きていかなければいけない感じだったらしいこと

を聞いたことがあったので、おそらく自分を守るのに必死な人生だったんじゃないのかと思うのです。

そんな父は、大学卒業後は広告代理店で働いていたのですが、娘である私の大学受験の数か月前に、急に「独立する」と仕事を辞めてきて、家族を戸惑わせました。

最初は明るい展望を聞いていたのですが、残念ながら父が描いていただろう事業と新しい生活はうまくいかず、我が家の家計は急降下ー!

高3の私も中3の弟も、その影響を受けることとなりました。せめて時期だけでも考えてほしかったと何度思ったことか〜(それでも奨学金やらなにやらにもお世話になって大学まで出してもらいました)。

その後の父との関係。

学生時代は、田園調布でアルバイトをして、卒業後は永田町で働き、世の中にはたくさんの種類の「おとな」がいることを私は知りました。そんな「おとな」の皆さんに、世の中のこと、人間のこと、お金のことなど、たくさんのことを教えてもらいました。

でも、ひとたび家に帰ると、お金のことにぴりぴりしたり、小さなことでいがみあうことの多い両親をみると気持ちが塞いでしまう、そんな毎日の学生と社会人時代でした。ちなみに弟は勝手に大学中退→海外放浪→音信不通。おいっ。

23区内で育ち、中学から大学まで私立に通わせてもらい、永田町で秘書に。

こう書くと、実際、周りには本当のお金持ちの家で育った友達も多く、私もある程度余裕がある家で育った子と思われることが少なくはなかったのですが、

とんでもなーーーい!

外から見える私と実際のギャップはとんでもないものでした。笑

その後、結婚して実家から離れ、父とは年に数日会うという関係になりましたが、この距離感がお互いベストだった気がします。

「後悔」という言葉をはじめて聞いた。

そんな父が今回、数日我が家に泊まっていったわけなのですが、父との時間が長くなると、古傷が刺激されちゃうことも増え、つい塩対応しちゃうことが何度も。まさに「来てよし、帰ってよし」の感覚です。私は父のおばあちゃん⁈

でも、会えた時にいつも思うのが、「これが会える最後かもしれない」ということ。

飛行機の最終便が出たら、どんなに慌てても次の日までは会うことは難しい。そんな場所にお互いが住んでいるのだから、せめて優しく見送ってあげたいなと空港まで送ることにしています。

で、今回お茶に誘ってもらったわけですが、入ったレストランのカウンターに座ると目の前は滑走路!

昔から空港や飛行機を見ることが好きな私(学生時代は1人で羽田空港で過ごすこともありました)の気分は爆上がり。小さい地方空港ですが、それもまたよくて、自分でも笑っちゃうほど興奮してしまいました。

そんな私を見た乗り物好きな父も、嬉しそうに機体や機内のうんちくを話し始めました。

「あの翼、なんであんな形なのかわかる?」、「これって古い機体でね昔は…」、「あの小さいプロペラ機はどこに行くと思う?」と、どんどん話ははずみ、私も「それで?それで?」とどんどん知りたくなり、大盛り上がり。

今回の父がきている間で一番楽しく話せました(遅っ)。

飛行機の話題でテンションが上がった私たちは、会話がひろがっていき、来年に受験生になる長男の話から、父の学生時代の話になりました。

父から“後悔”の言葉が。

「関西の有名大学に合格したお父さんだけどね、大喜びしたおじいちゃんの期待にこたえたくなくて、あえて滑り止めで受けた大学に入学を決めちゃったんだよ」。

それは、前からなんとなく耳にしていた話ではあったのですが、でも腫れものに触れちゃうようで避けてきた話題なので、突然の告白?に内心とても驚きました。

父は続けて「でもそんな選択の積み重ねで今の時間があるからあれでよかったかな、とも思えるんだけどさ。でもさ、笑っちゃうよね。いくら反抗期だったからって、〇〇大学をけるなんて。ほんと“後悔している”」と。

プライドでがちがちの、人に弱みを見せようとしない父が、自分から「後悔」発言するとは!

お父さん、やーっと言えたんだね、と少しびっくりしながらも、淡々と「でも、その大学に行っていたら私や孫たちには会えなかったね。ふふふ」と笑ってかえす私でした。

すっきりしたような顔をして登場ゲートに入る父を「これからを楽しめいっ!がんばれいっ!」と暖かく見送った私は、やっぱり父のおばあちゃんなのかもしれません。

空港からの帰り道

帰りの運転中、

周りに反対されることもあった28歳までしていた仕事を辞めて、結婚して、宮崎に来て、後悔したり泣いたり、必死に自分の道を探さなきゃともがいていた自分を、なんだか父に似ているなと思いました。

嫌だけどー。

不器用な選択をしちゃう父も私も、その時考えるベストな選択をしたと思うと、

「どんな選択も結局よかったよね」とこの世を去るときに思えるような毎日を過ごしていくしかないよね」と改めて思えた、そんな日でした。

…父に似ていると思うことはやっぱり不本意なので(どんだけよ)、私は父よりもさらに満足度の高い人生をおくってみせるぞっ⁈


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