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デス・ヘッド Death's Head

第七章 死の淵
 

 
 達也が白鷺の群れに襲われ、あの恐ろしい社殿に引き込まれていたころ、加奈子は鷺の鳴き騒ぐ声を聞いて意識を取り戻した。
 そして反射的に背筋を伸ばした瞬間、頚椎をしびれるような痛みが襲った。
 泣きたくなるのを堪えて、ハンドルに手をついておそるおそる身を起こすと、髪にこびりついていたフロントガラスの破片が、パラパラとこぼれ落ちた。
 ボンネットが反りあがり、エンジンが剥きだしになってはいたが、身体にはどこにも傷はなかった。
 シートベルトを外すために身をよじると、肋骨が刺すように痛んだ。だが歯をくいしばってドアを開けて外に出た。
 前に回ると、倒木が遮断機のように道の真ん中に転がっていた。
 何十年、あるいは何百年もここにそそり立っていた老木が、よりにもよって加奈子が通りかかったときに、その最期を迎えたというわけだ。
 偶然で、こんなことが起こりうるものだろうか。
 まるで目に見えない力が、自分を神社に近づけまいとしているかのようではないか。
――絶対、負けない!
 加奈子は夫や娘のことを思って自分を奮い立たせると、車をその場に乗り捨てて、山道を駆けた。
 もう息が切れて、これ以上走ったら肺が破れてしまいそうになったけれど、それでも加奈子は走るのをやめなかった。
 やがて絹子の四輪駆動車が、鳥居の側に停めてあるのが見えてきた。
 その傍らを通り抜けて鳥居をくぐると、ふいにあたりが静まり返った。
 焦燥にかられて参道を走り抜け、突き当りを曲がると、雪のように白鷺の羽根が散らばり、一羽が死骸をさらしている。
 そして社殿の入り口では、ゆかりと絹子が、じっとこちらを見ていた。
 ゆかりが無事でよかった。どんなことをしても、娘をこの忌々しい場所から連れて帰るのだ。
 思いつめて拝殿の前まで駆けつけたとき、ゆかりがふっと微笑しながら社殿の扉を大きく開いた。
 炉の炎が、玉砂利の上に倒れた男の下半身を照らしだした。
 男は、見覚えのある黒いスポーツシューズを履いている。
 五年前の達也の誕生日に買ってあげた靴。もう古くなって靴底がすり減ってきたから捨てようと言ったのに、これが気に入っているといって、以前はどこへ行くにも履いていた靴。
――達也がこんなところにいるはずがない。彼は家にいるはずだ。だって、駐車場に車があったではないか。
 そう思いながらも、ありったけの勇気を奮い起こして社殿にとびこみ、そこに倒れている達也と向きあった加奈子は、すさまじい悲鳴をあげ、夫の亡骸にすがりついて泣き喚いた。
 絹子はなんともいえない居心地の悪さを感じて、社殿に背中を向けた。
 だが、ゆかりはじっと母親を見つめている。
 その目の奥で、なにかが蠢いていた。
 九歳の子供が、母親に対して抱くはずのない悪意に満ちた好奇心。
 いや、そんな単純なものではない。もっと残酷で奥深いなにかが、見え隠れしている。
 やがてゆかりは社殿の扉を開け放ったまま、樹上でなりをひそめていた白鷺の群れに向かって片手を掲げた。
 それを合図に飛びたった白鷺の群れは、猛々しく加奈子に襲いかかった。
 はっとして振り向いた加奈子の喉を、一羽の嘴が突いた。
 社殿の中に入りこんだ白鷺たちは、両手を振りまわしてただ弱々しく抗うだけの加奈子の胸や腹を嘴で抉った。
――達也もこうして殺されたのね。なにもかも私のせいだ。私があの女を呪ったのが、すべてのはじまりだった。かわいそうな達也。かわいそうに……。
 全身を貫く痛みに意識は朦朧として、もはや抵抗する気力もなくして達也の亡骸に覆い被さったとき、耳をつんざくような銃声がとどろいた。
 加奈子の背中にとまり、脳天に嘴を突きたてようとしていた白鷺が胴体を撃ち抜かれ、あとの白鷺たちは蜘蛛の子を散らすように飛び去った。
 雪のように羽毛が降り積もり、異様に静まり返った神域に、銃身から薬莢をエジェクトし、新たな銃弾を装填するガシャッという音が響いた。
 なにが起こったのかもわからずに痛みをこらえて顔をあげると、拝殿の向こうには陸軍の歩兵銃を構えた松井の姿があった。
 いや、銃だけではない。カーキ色の古い軍服を着こみ、腰には銃剣をおび、松井は半世紀前の復員軍人の姿をしていた。
――松井さん……。
 加奈子の思いは言葉にはならず、傷ついた喉からはざらざらとした喘ぎ声が漏れた。
 松井は達也の死骸を痛ましげに一瞥すると、不自由な左足を前に突きだし、右足で身体を支え、右の肩に銃床をあてて再び引き金を引いた。
 激音とともに銃身が跳ねあがり、銃弾は水晶球のど真ん中に命中して、その透明な球面にひびが入った。
 六十年の歳月を経ても、陸軍で鍛えた銃の腕前は、衰えてはいなかった。
 素早くボルトを引いて薬莢を吐き出し、再び水晶球に狙いをつけると、絹子が目を吊りあげて銃口の前に立ちはだかった。
「どけ!」
 松井は、鬼のような形相で叫んだ。
「いいえ。どきません。何人も、あれに手をかけることは許しません。五十年前にも、そう申しあげたはずです」
「ああ。確かに聞いたとも。あんたがもう人を呪うのはやめるというから、わしは見逃した。しかし、あんたは約束を破って、また人を呪うた。今度こそは許さん」
 そのとき、ゆかりがククッと笑う声がした。
「あなたに、そんなことをいう資格があるの?」
 いつの間にか、ゆかりは拝殿の外側を回って絹子の側まで来ると、松井を見つめた。
「五十年前に、おばあちゃんが人を呪ったのは、正弘が浮気をしたからよ。あなたは正弘の浮気を知っていたくせに、止めようとしなかったわね。なぜ? おばあちゃんが、あいつと別れて、自分と結婚してくれるかもしれないと思ったからでしょう? もしあなたが正弘を止めていたら、あんな事件は起こらなかったはずよ」
「ちがう……わしは、そんなつもりではなかった」
 松井は銃床を握りしめてかすれた声で言い返したが、その手は小刻みに震えていた。
 確かに松井は、正弘の浮気を見てみぬふりをした。だがそれは下心があってのことではない。
 戦地から引き揚げてきて、なにもかもなくした松井には、友人を諌めるだけの気力すらなかったのだ。
――いや、本当にそうだったのだろうか?
 松井は自問自答した。
 心のどこかで、自分は二人が別れることを期待していなかっただろうか。
 いや、それよりも、なぜこの子はそんなことを知っているのだ。自分はだれにも当時のことを話した憶えはない。
 松井の動揺を見透かしたように、ゆかりは言葉を継いだ。
「それだけじゃないよね。あなたは、そのあと何度もここにやってきたよね。おばあちゃんが、ここにお参りにくるのを知っていたから、途中で襲って犯してやろうと思ったんだよね。でも勇気がなかったから、指をくわえて見ていたんだよね」
「だまれ!」
 松井は顔を真っ赤にして、銃身で殴りかかった。
安全装置をかける余裕もなくすほど、ゆかりの言葉は彼の急所を抉った。
確かにそれは事実であった。しかし、だれにも知られることなく、心の内に秘めて、ひそかに墓場まで持っていくはずのことであった。ゆかりは、それを白日の下にさらしたのだ。
 ゆかりは鼬のようにすばしっこく銃身を避けると、松井の後ろにまわりこんで、右の足首を掴んで引っ張った。
 軸足を引っ張られた松井は、銃を抱いたままぶざまにドオッと仰向けにひっくり返り、銃床が石畳にぶつかった。
 銃を放すまいと握りしめたはずみに、トリガーガードをすり抜けた指が、引き金に触れてしまった。
 瞬間、銃が暴発し、弾丸が、すぐ側にいた絹子の横腹を貫いた。絹子は衝撃で後ろに跳ね飛ばされ、石畳の上に倒れた。
 やがて傷口からおびただしい血を流しながら、絹子はうめき声ひとつあげずに、石畳に手をついて上体を起こした。
 呆然と目を見開いていた松井は、銃を捨ててよろよろと立ちあがり、絹子の傍らにへたりこんだ。
「絹子さん、すまん。わしは……」
「なにも言わないでください」
 絹子はひたと松井を見つめて、強い声で言った。
 その目には、とうの昔になくしたはずの若々しい情念が、涙といっしょに浮かんでいた。
「あなたを待ちきれずに結婚したことを、私はいまでも後悔しています。でも、それは終わったことです」
 胃の腑から逆流してきた血が、絹子の言葉を遮った。
 松井はためらいを振り捨てて絹子を抱きしめ、無骨な手で背中をなでさすった。
 ゆかりは達也が落とした鎌を拾いあげると、無造作にそれをぶらさげて二人の後ろに近づき、言葉をかけた。
「おばあちゃん、もう一つ告白しておいたら? 人を呪うのはやめると言いながら、五十年前に自分を殺そうとした人々への恨みを捨てきれずに、村のみんなの人形を作って中に飾っていたんだよね。機会があれば、いつかは全員を呪い殺すつもりで」
 ゆかりの言葉に、絹子の口元が歪んだ。
「たしかに、あなたの言うとおりよ。でも私はこの五十年の間、人を呪ったことは一度もなかった。それを破らせたのは、あなた……」
「やっぱりそうか!」
 松井が声をあげて振り向くや、ゆかりは鎌を両手に握りしめて、力のかぎり振りおろした。
「やめて!」
 絹子の叫びも空しく、鎌は松井の頭蓋骨に食いこみ、刃を抜くと堰を切ったように血が溢れだしてきた。
 松井は腰の銃剣に手をかけたまま、白目をむいてがっくりと前のめりに倒れた。
「なぜ、こんなむごいことをするの……」
 絹子は松井の身体を抱きしめて、うめいた。
「おばあちゃんに、そんなことをいう資格はないでしょう? それにおばあちゃんはただ祈るだけで、あの人が本当にして欲しいことはなにもしなかった。だからあの人は、私を呼んだのよ」
 ゆかりは、返り血を浴びた頬に小さなえくぼを浮かべて、社殿を指さした。
「濃姫さまが、本当にしてほしいこと……」
「まだ、わからないの? あの人は、外に出たがっているのよ」
「なんですって?」
「こんな狭い建物の中に閉じこめられているのは、もうあきあきしているのよ。思う存分、外で力をふるい、大勢の人に崇められたいのよ」
「そんなことは、許されない……」
「なぜ?」
「……」
 絹子は喘ぎながら首を振った。
 津田家は安土桃山時代から、濃姫の遺骨を守ると同時に、祟りを鎮めてここに封じこめる役割を担わされてきた。
 もし遺骨が外に出たら、どれだけの災厄を撒き散らすか想像もできない。矛盾しているようではあるが、絹子は真剣にそのことを案じていた。
「いけない……」
「おばあちゃんに、そんなことを言う権利はないの。おばあちゃんは、私をここに導くために生きてきたの。役割はもう終わった。じゃまなのよ」
 ゆかりは冷たい目で絹子を睨むと、じくじくと血を噴きだす腹の傷を、思い切り蹴りつけた。
 
 
 社殿の中で夫の亡骸にすがりついていた加奈子の耳にも、ゆかりと絹子のやりとりは聞こえた。
 加奈子は、二ヶ月前、夢中歩行していたゆかりのことを思い出していた。あのゆかりは、何かに……もしかしたら濃姫に取り憑かれているのかもしれない。そうとしか思えない。
 加奈子は涙を拭って、祭壇の上に据えられた水晶球を見やった。
 その中に封じこめられている頭蓋骨は、いつか見た夢の中で、愛する人を殺されて悩乱していた美しい女の顔にぴたりと重なった。
 これこそ濃姫の髑髏なのだ。
――おまえのせいで大勢の人が死に、私たちの一家はこんな目にあった。許さない! おまえだけは絶対に許さない。
 加奈子は痛む身体を引きずり起こし、祭壇に這い上がって水晶球に手をかけた。
 とたんにそれは青白い光を放ち、手のひらに鋭い痛みが走った。
 思わず加奈子は手をひっこめた。
 熱湯を浴びせかけられたように手のひらが赤らみ、水晶に触れた個所は皮膚がむけている。
 なにか目に見えない力が、このおぞましい頭蓋骨を守っているのだと思うと、なおさら怒りが募った。
――負けるものか。
 加奈子は髑髏を睨みつけて、両手で水晶球を抱えこんだ。
 再び閃光が立ち昇り、高圧電線を握りしめたようなショックと痛みが身体を貫いた。
 だがこの痛みに耐えることこそが、死んだ夫や多くの人々への償いなのだと思い、加奈子は歯を食いしばり、あらんかぎりの力をこめて水晶球を押した。
 と、力がふっと抜けるような感覚とともに、台座から押し出された水晶球は、地獄の歯車が回るような音をたてて、砂利の上に転がり落ちた。
 その瞬間、加奈子は勢いあまって、祭壇の上に突っ伏した。
 心臓は激しく鼓動を刻み、喉がゼーゼーと音をたてる。
 手のひらは一面に皮がむけ、熟れた無花果のように肉がはじけて、じくじくと血が滲みだしている。
 目のくらむような痛みを堪え、加奈子は祭壇から身を乗りだして、地面に落ちた水晶球を見やった。
 さっき松井に撃たれてできたひびが縦に大きく広がってはいたが、水晶球はまだ割れてはいない。
 加奈子はよろめきながら祭壇を降りて水晶球の傍らに膝をつくと、玉砂利の中から大きな石ころを探しだして、それを両手に握りしめて振りおろした。
 ガキッと乾いた音をたて、水晶球は火花をあげて石を跳ね返した。
 腕がもげ落ちるほどの激痛に、一瞬加奈子は気を失いかけた。
 だが心の中で燃えあがった怒りの炎は、痛みよりもなお強く加奈子を衝き動かした。
「負けるものか……」
 扉が開き、だれかが中に入ってきたことにも気づかずに、加奈子は歯を食いしばってそれを叩き続けた。
 幾度目かに手のひらに鈍い衝撃が伝わり、軋み音をたてて水晶球は二つに割れ、胸のわるくなるような死臭が立ち昇った。
 そして突然光が消えうせた。
 網膜に焼きつけられた髑髏の残像がハレーションを起こし、目の前いっぱいに広がり、やがて闇が訪れた。
 その闇の底から、微かな鼓動が聞こえてきた。
 ドクッ ドクッ
 加奈子は、身を固くしてその音に耳をすました。
 それはすぐ目と鼻の先、手を伸ばせば届きそうなところから聞こえてくる。
 しかも、しだいにその鼓動は強まり、あたかもこの空間自体が生命を宿しているかのように、空気がピリピリと張りつめ、蠢きはじめた。
 加奈子は怯え慄きながらも、自分を叱咤した。
 いまさらなにを畏れることがあろうか。あれを壊すことが自分の使命なのだ。しっかりしろ。
 もうほとんど感覚のない両手に石を握り、その音に向かって振りあげたとき、背後で玉砂利を踏む音がしたかと思うと、右の肩に焼けるような痛みが走った。
 衝撃に耐え切れずに、加奈子は倒れた。
 起きあがろうとしても、右腕はまったく自由がきかず、生暖かいものが胸に流れこんでくる。
「ママ、お疲れさま」
 すぐそばで、ゆかりの声がした。
 朦朧とした意識のまま、加奈子は必死に目をこらした。
 暗がりの中で、娘の姿を見定めることはできなかったが、血塗られた鎌が、雲間に浮んだ三日月のように微かな光を放っている。
 加奈子は、なにが起こったのかを悟った。
「ゆかり……」
「ママは、その髑髏の封印を解くために、ここに招かれたの。そして立派に仕事をやりとげたのよ」
 歌うように言うと、ゆかりは加奈子の身体をかすめて奥に入り、しゃがみこんだ。
 闇の中で、愛しげに髑髏をなでていたゆかりは、やがてそれを両手に抱えると、ゆっくりと立ちあがった。
 ドクッ ドクッ
 あの鼓動がひときわ高まり、板壁が共鳴してガタガタと揺れた。
 水晶球は髑髏を守っていたのではなく、封じこめる役割を担っていたのだ。
 加奈子は復讐するつもりで水晶球を打ち壊したが、それこそが、あれの狙いだったのだ。
 愚かな、なんという愚かな真似をしてしまったのだろう。
「ゆかり、お願いだから……正気に戻って」
 加奈子はありたけの気力を奮い起こして叫び、懇願した。
 
 
 ゆかりの意識は、自分自身の五感からも中枢神経からも切り離されて、深い海の底のような沈黙の世界に沈んでいた。
 そして、どこか遠いところから伝わってきた母親の悲痛な叫びに、ハッと我に返った。
――ママ?
 ゆかりは声をあげようとしたけれど、唇を動かすことはできなかった。
 いまのゆかりは、半覚醒の状態で夢を見ているようなものであった。
 夢の中にでてくる自分は、本来の自分の意志に反する行動をとるときがある。それをいくら止めようとしても、どうにもならない。
 いまは、その夢の中の自分が肉体を支配して、自由に動きまわっている。
 なんとかして身体を奪い返そうと必死に力をこめると、わずかながらも手足の感触が戻ってきて、左手の中指が自分の意志に反応してかすかに動いた。
 だが、右の手はまったく思い通りにはならず、母親に向かって鎌を振りあげた。
――やめて!
 心の中で叫んだとき、腕の中の髑髏がギリッと歯軋りをした。
 突然、すさまじい怒りの思念が空を震わせ、社殿の外でなにかがひっくり返るような大きな音がして、ゆかりの身体を支配しているもう一人の自分が気をそらせた。
 一瞬の隙をついて、ゆかりは自由になる左手で髑髏を投げ捨て、鎌を握った右の手首を掴んだ。
 左足は右足の向こう脛を蹴りつけ、身体はどおっと地面に倒れた。
 二つの相反する意志に操られた右の半身と左の半身は、一つの身体を奪いあい、獣のようなうめき声をあげながら、玉砂利の上を転げまわった。
 だが、もう一人のゆかりが支配する右手は、必死に掴みかかる左の手を振り払うと、鎌を左の腕に突きたてた。
 激痛に耐え切れず、哀しげな悲鳴とともに左の手から力が抜け、ゆかりの意識はまた脳の深奥に追いやられてしまった。
 しばらく玉砂利の上に横たわっていたもう一人のゆかりは、荒い息をつきながら身体を起こした。
 そのとき扉の隙間から、燃え盛る炎とともに熱風が吹きこんできた。
 
 

 
 加奈子が水晶球を割ったときに生じた禍々しい波動は、社殿の外にも伝わっていた。
 誰よりも敏感に、それを察知したのは絹子であった。
 絹子は歯を食いしばって上半身を起こすと、折り重なるように倒れていた松井の首筋に手をあてた。
 鎌の刃は頭皮を切り裂き、すさまじい出血に顔面は赤い仮面をかぶったように血塗られていたが、まだしっかりとした脈がある。
 ゆかりの力では頭蓋骨を粉砕して大脳を傷つけることはできず、頭部の傷は致命傷にはならなかったのだ。
 最初の一撃で気を失ったことが、松井の命を救ったといえるかもしれない。
 絹子は自分の服を裂いて松井の傷口にあて、頭巾を被せるように額で縛って血を止めると、その耳元に囁いた。
「松井さん。私はまだやらねばならないことがあります。あなたを残して行くことを許してください……」
 絹子は立ちあがろうとしたが、傷ついた腹部大動脈からはひっきりなしに血が流れだし、両足はしびれてほとんど感覚がない。
 絹子は、拝殿の炉に向かって這いはじめた。
 目の前がぐらぐらと揺れ、わずか十メートルあまりの距離が、何百メートルにも感じられる。
 左の肘を前に突きだし、また右の肘を突きだして身体をずりあげ、幾度もそれを繰り返してようやく炉にたどりつくと、積みあげられた茨の束を炉に投げこんだ。
 くすぶりかけていた炉は、新たな火種を注入されて、たちまち炎を噴きあげた。
 絹子は炉にへばりつき、力をこめて押しはじめた。
 そして三本の脚の一つが浮きあがりかけたとき、「いかん……」とかすれた声がした。
 はっとして振り返ると、気を失っていた松井が、懸命に身体を起こそうとしていた。
「中には加奈子さんがおる……あの人を巻き添えにしてはいかん」
 松井は目に入りこむ血を拭いながら、かすれた声でいった。
 しばらくの間、絹子はじっとその目を見つめていた。
 そして枯れた笑いを漏らした。
「あなたは、昔から少しも変わりませんね。自分のことより他人のことを考えて……。でも、なんとしてもあれを外に出すわけにはいかないのです。加奈子さんやゆかりちゃんには、地獄でおわびをします」
 絹子はそういうと、唇をぎゅっと引き結び、燃え盛る炉の縁を掴んで身を起こした。
 たちまち炎は手を焼き、髪に燃え移った。
「やめんか!」
 松井がよろめきながら立ちあがった瞬間、絹子は炉にのしかかり、炎に顔を焼かれながらも、あるかぎりの力をこめて押した。
 ぐらりと傾いた炉は、銅鑼を叩くような音をたててひっくり返り、燃え盛る茨の枝が飛び散った。
 旱魃で乾ききっていた拝殿はたちまち燃え上がり、炎は柱から天井に燃え移ると、巨大な火柱となって夜空を焦がし、傍らにそそりたつ社殿の屋根にも飛び火していった。
 
 

 
 そのとき一人の少年が、煙の充満する参道を、神社をめざして駆けていた。
 楠田信吾である。
 この数日というもの、信吾は生まれてこのかた経験したこともないほどの孤独の中にいた。
 信吾は、ゆかりが転校してくるまで、友達らしい友達はいなかった。
 ところがスポーツ万能で、可愛くて、頭のいい少女は、なぜか彼と気があった。
 あの日、その大切な友達を残して逃げだしたのは、友情さえも圧倒してしまうほどの恐ろしい力を感じたからなのだ。
 それから毎夜、信吾は夢を見てうなされた。
 時代劇にでてくるような着物を着て、美しくてすごみのある女が、ゆかりの手をひいて、どこか遠いところに連れ去ってしまう夢だ。
 なんとかして彼はそのことを加奈子に伝えたいと思い、一度は家の側まで行った。だが彼女の家には、すでにその女の気配が充満していた。
 信吾は怖じけづいて家に逃げ帰り、部屋にこもった。
 そうしていてもなお、カーテンでふさいだ窓の向こうから、あるいは本棚の本と本の隙間からさえも、女が自分を監視していて、二度とゆかりに近づかないようにと警告しているような気がしてならなかった。
 だから加奈子からの電話にも、まともな返事ができなかった。
 けれども電話を切った後で、信吾はこのままではたった一人の友達を失ってしまうということを痛感した。
 そんなのはいやだ。どうしても行かなくてはいけない。そう思い定めて、信吾はゆかりの家を訪ねた。
 家にはだれもいなかったが、背後の山からは、胸が悪くなるようなあの女の気配が伝わってくる。
 ゆかりはきっと、あの神社にいる。
 今度こそ自分がゆかりを救わなければならないと、信吾は決死の覚悟で山を登ってきた。
 そして参道を曲がってここにたどりついたとき、炎に包まれた拝殿が倒れ、火があたり一面に飛び散った。
 ゆかりは頭蓋骨を抱えて社殿から出ようとしたものの、目の前の拝殿が崩れ落ちてきて出入り口をふさいでしまった。
「ゆかりちゃん!」
 無我夢中で火の中に飛び込もうとした信吾は、「待て!」と声をかけられ、その場に縮みあがった。
 おそるおそる声のした方を見ると、血まみれの老人が焼け焦げた死体の側にしゃがみこんでいた。
 松井は、灼熱の塊と化した炉から、絹子の身体を引きはがして参道の傍らまで運びだしたのである。
 松井は信吾を安心させようと、ぎこちない微笑を浮かべた。
 火傷を負った血まみれの頬が歪み、かえって気味の悪い顔になった。
 だが信吾は、その目に善良なものを感じた。そして、この老人は信じてもいい人だと思った。
「おじいちゃん、その怪我、なっとしたん?」
「あのゆかりという娘にやられた。あれは恐ろしい奴や。お前は、近づいたらいかんぞ」
 松井がそう言うと、信吾は泣きそうな顔で言い返した。
「違うもん。ゆかりちゃんはええ子やもん。あの女のせいで、おかしなったんや」
「あの女?」
「髪の長い、恐い女の人や」
 信吾は、この数日自分を脅かしてきた女のイメージを、うまく言葉にすることができずに、苛立たしげに叫んだ。
 だが松井は漠然とではあるが、信吾がなにを言わんとしているかを理解することができた。
 考えてみれば、九つの子供がこんな大それたことをしでかすはずがない。あの娘も、操られているのだ。
 あの髑髏こそが、すべての元凶なのだ。五十年前に、あれを壊していれば……。
「坊よ。あの娘と母親を助けるために、力を貸してくれるか?」
「うん」
 信吾がうなずくと、松井は傍らに転がっていた歩兵銃を拾いあげ、ボルトを引いて薬莢を排出すると、「あと、二発」と呟いて安全装置をかけた。
家を出る前、歩兵銃の弾倉に五発の弾丸を込め、三発を発射したことだけは忘れていなかった。
 そして絹子に手を合わせ、彼女の腰から鍵の束を抜きとった。
 一方の手で信吾の肩を掴み、不自由な足を引きずりながら鳥居の元にたどりつくと、鍵の束から車のキーを選びだし、絹子の車に乗りこんだ。
 それだけの動作で息がきれ、頭が割れるように痛んだ。
――しっかりせえ。ここで踏んばらな、なんのために生き残ったのかわからん。
 舌を噛んで意識をはっきりさせ、イグニッションキーをひねると、車は軽快なエンジン音をあげた。
 フロントガラスを通して見ると、わずかの間に火は山全体に燃え広がり、前後左右どちらを向いても木々は炎に包まれ、煙が霧のように地表を覆いつくしている。
 火炎の間から覗く夜空は不気味なほどに暗く、幾層にも重なった雲が激しく流れ、ときおり稲妻が空を斜めに切り裂いていた。
――雨よ降れ。この山火事を鎮め、濃姫の力をそいでくれ。
 松井は、闇空に向かって祈った。
「おじいちゃん、どうすんの?」
 信吾が、不安そうに車に乗りこんできた。
「お前は後ろの座席に乗って、シートベルトをしっかり締めとけ。これからこの車で神社に飛び込むぞ」
 松井は後部座席を振り返ってそう言うと、アクセルを踏みこんだ。
 
 
 4
 
 全身をオレンジ色の炎に焼かれ、横たわった絹子の心肺はすでに停止していた。しかし、大脳の深部はまだ死に至らず、すべての五感から切り離されて生死の境を漂っていた。
 そんな絹子の脳に、激しい怒りが忍び込んできた。
濃姫の怒りである。
 濃姫は、半世紀もの間、忠実な神官として仕えてきた絹子が、自分に逆らうなどとは思ってもいなかったに違いない。
 本来なら、思考することなどできるはずのない死滅しかけた脳で、絹子はそれを感じていた。
――濃姫よ。お前を守るために、津田一族が、そして私が、どれほどの艱難辛苦に耐えてきたかを思ってもみるがいい。われらの一族があればこそ、お前は何百年も安閑としていられたのだ。その一族を裏切るような神に、もはや存在理由はない。われらとともに滅べ。
 絹子は生涯の悔恨を込めて、心の中で叫んだ。と、
――許すまじ……
 頭蓋の中に思念が響いた。
――決して汝を許さぬ。わが元に来たれ。汝に地獄がどのようなものか、教えてつかわす……。
 身の毛もよだつような恐ろしい呪詛の念は、消えかけていた絹子の意識をこの世に引き戻した。
 怯え、おののき、その思念から遠ざかろうとしても、絹子にはどうすることもできなかった。
――来たれ。わが元に来たれ……
 燃えくすぶる細胞の一つひとつ、髪の毛の一筋にまで濃姫の呪いは染みわたり、絹子の身体を燃え盛る社殿に向かって這わせた。
 
 
 5
 
 社殿の中は、熱気が渦を巻いていた。
 屋根と板壁の隙間から赤い舌のような炎が入りこんで、じりじりと天井を焦がし、壁と地面の十センチほどの隙間からは、熱風と煙が入りこんでくる。
 ゆかりは板壁と地面の隙間を広げて脱出しようと、玉砂利を取り払い、地面を掘ろうとしたが、整地された地面はゆかりの力ではどうすることもできなかった。
「お前が私をここに呼んだのよ。助けて、助けてよ……」
 ゆかりは、濃姫の髑髏に懇願した。
 それに応えるように髑髏は生々しい精気を放ち、社殿の板壁は激しく揺れたが、それを打ち破ることはできなかった。
 水晶球が破壊されたとはいえ、四百年もの間、濃姫をここに封じこめてきた力は、まだその力を失ってはいないのかもしれない。
 濃姫は恐ろしい呪力で大勢の人の命を奪ったが、結局ここから出ることはできないのではないか。
 その力に対する信頼が揺らぐと同時に、パニックがこみあげてくる。ゆかりは懸命にそれを自制したが、抑えきることはできなかった。
 吸いこむ空気は熱を帯び、喉の粘膜はカラカラに渇ききって、身体の内側から焼け焦げてしまいそうだ。
 と、蝶番が焼け切れて、正面の扉が倒れてきた。
 爆風とともに炎が吹きこみ、入り口近くに横たわっていた達也の亡骸は一瞬のうちに炎に包まれた。
 祭壇のまわりの人形も、パチパチと音をたてて燃えはじめた。
 熱風に髪を焦がされ、たまらずに髑髏を捨てて、顔を覆ってしゃがみこむと、それまで祭壇の陰にいた加奈子が、強引にゆかりを抱き寄せて押し倒した。
 ふいをつかれたゆかりは抵抗したものの、冷んやりとした土を背中に感じて、ハッと息を呑みこんだ。
 わずかの間に、加奈子はあの傷ついた手で玉砂利を取り払い、さらに地面を掘って窪みを作っていた。その窪みにゆかりを入れて、上から覆い被さったのだ。
「いい子だから、じっとしていなさい。どんなことをしても、あなたを助けてみせる」
 喘ぎながら、加奈子は娘を抱きしめた。
 加奈子の背中は、火のついたストーブのように熱かった。
 降りかかる火の粉に髪は焦げ、いまにも体は火を噴いて燃えてしまいそうだ。
 それなのに、加奈子はゆかりを抱きしめて耐えている。
 母は、この私を助けるために死ぬつもりなのだと悟ったとたん、冷酷非情なゆかりの心の中でなにかが破裂して、幼いころの記憶が、堰を切ったように溢れだした。
 口にくわえた乳房の感触。
限りない安心感を与えてくれた抱擁。
優しい歌声。
すべてを自分に与えてくれた母親の思い出が、奔流となって脳を駆けまわり、分裂した二つの自我は一つに溶けあいはじめた。
「やめて。ママ、死んじゃ、やだ」
 ゆかりは母親にすがりつき、柔らかな胸に顔を押しつけて泣いた。
 そのとき轟音ともに板壁を突き破って、車がとびこんできた。
 衝撃で天井の一角が崩れ、拝殿側の柱の一本が傾いて吹雪のように火の粉が降りかかった。
 加奈子は、朦朧とした意識のまま顔をあげた。すると信吾が、ゆかりの名を呼びながら駆けつけてきた。
 
「加奈子さん、はよう乗れ!」
 車の運転席から叫びながら、松井は銃を握りしめて祭壇の上を見やった。
 だが、そこにあるはずの水晶球は砕かれて地面に転がり、肝心の頭蓋骨は見当たらない。
 松井は戸惑い、フロントガラスに顔を押しつけて社殿の中を見回し、そして助手席から外を覗いたとたん、うめき声をあげた。
 車の前輪の、わずか数センチ向こうに達也の遺体が横たわっている。だがその遺体の足元に、焼け焦げた絹子の亡骸があった。
 松井は、己の正気を疑った。
 絹子は、拝殿の外で息絶えていたではないか。こんなところに絹子がいるはずはない。
 だが、幾度目をこすっても、絹子の姿は消えなかった。
 それどころか、焼け焦げた絹子の手が、ぶるぶると震えて、なにかを求めるように突きだされたのである。
 体の芯から恐怖が噴きだし、脂汗が滲んでくる。
 松井は自分が目にしているのが本当のことなのか、熱にやられた脳細胞が生みだした幻覚なのかの区別がつかなくなってきた。
 やむにやまれぬ衝動にかられて車を降りようとしたとき、ガソリン臭が鼻をつき、松井はハッと現実に引き戻された。
 思い切りアクセルを踏みこんでも、エンジンの回転数があがらない。
「早く来い!」
 松井の叫びに応えて、ゆかりと信吾が、加奈子を引きずるようにしてやってきた。
 松井はもう一度絹子の身体を見やると、唇を噛んで、ギアをバックに入れてアクセルを床まで踏みこんだ。
 ようやくエンジンの回転数があがり、うなり音をあげて後退するうちに、社殿を囲む五輪の塔の一つが後ろのバンパーに引っかかった。
 死に物狂いでハンドルを切って、塔と塔の間から脱出した瞬間、社殿が倒壊して炎が雪崩のように噴きだしてきた。
 エンジンが炎に包まれ、霧化したガソリンが車内にも溢れだしてきた。
「車を降りるんや! 逃げよ」
 松井は銃を掴むなり車をとび降り、ゆかりと信吾が加奈子を引きずり下ろした直後、耳を劈くような轟音をあげて車は爆発した。
 吹きとばされたガラスや車の破片が降り注ぎ、ようやくそれが収まって、松井がおそるおそる顔をあげると、ついさっきまで自分がいた運転席は炎に包まれていた。
 煙が気管をこすり、喘ぎながらまわりを見まわすと、参道に倒れた加奈子を、ゆかりと信吾が必死に抱き起こしていた。
「加奈子さん、大丈夫か?」
 よろめきながら立ちあがると、瓦礫の下から、心臓の鼓動にも似た震動音が伝わってきた。
 その残骸の下、だれの目も届かぬところで、地獄のような光景が繰り広げられていた。
 
 



 
――お許しください。どうぞお許しください。
 目に見えない力に引き寄せられて、瓦礫の下を這い進んできた絹子は、ひたすら許しを乞い求めていた。
 濃姫はその恐るべき思念の力で、絹子の残存した神経に働きかけて、身体を呼び寄せたのだ。
 生きながら埋葬された人のように、絹子は己が身体を、自らの意志で動かすことができず、焼け焦げ、血や肉が引き剥がされる地獄のような苦痛をただ耐えしのぶしかなかった。
 灼熱の地面を這いずって祭壇の前に到達した絹子に向かって、髑髏は無慈悲な思念を送りこんだ。
――汝の罪は斬首にあたいする。死して償え。
 冷ややかな声とともに、絹子の手はがっしりと己が首を握った。
――お許しください。お許しを……
 構わずに絹子の手は力をこめた。
 焼け焦げた表皮がはがれ、ピンク色の肉が露になっても、指は容赦なく首に食いこんでいく。
 血管や筋組織を引きちぎり、やがて頚骨にまで達した手は、濃姫の意のままに残酷な処刑者と化して、己の首をポキリと捻じ折った。
 転がり落ちた絹子の首は焼け焦げた玉砂利の上を転がり、そのガラス玉のような目からようやく意識の煌きが消えた。
 視神経を失い、もどかしげに空をさまよっていた血まみれの手は、ついに濃姫の頭蓋骨を探し当てた。
 その丸みを帯びた頭頂部を愛しげに撫でまわしていた手は、そっとそれを持ちあげると、いままで己が首のあった血まみれの断面に乗せた。
 
 お互いに支えあいながら、燃えあがる木と木の間を突っ切って北側の斜面に向かいかけていた四人は、瓦礫の崩れる音に振り返った。
 すると炎に包まれた建物の残骸を押し退けて、奇怪なものが姿を現した。
 顔だけが白骨と化した絹子が、目に見えない糸をたぐり寄せるように、左右の手を交互に突きだして空を掴み、バランスをとりながら、もつれる足を引きずるように後を追いかけてくる。
「絹子さん……」
 呆然と立ちすくむ松井に、ゆかりが叫んだ。
「ちがう! あれは、おばあちゃんを殺した化け物よ!」
 ハッと我にかえった松井は、まじまじとそれを見つめた。
 焼け焦げた胴体は紛れもなく絹子のものだが、炎を照り映やしててらてらと光るあの頭蓋骨が、絹子のものであるはずはない。
 首と胴の接合部を目にして、絹子の身になにが起こったかを悟ったとたん、ショックに目の前が揺らぎ、絶望と怒りが体の芯を貫いた。
 頭の傷口が開き、溢れだした血が顔面を真っ赤に染めた。
「許さん。許さんぞ」
 松井は憤怒に身を震わせ、額から滴り落ちる血を拭って銃底の安全装置を解除すると、頭蓋骨に狙いを定めて引き金を絞った。
 弾丸は額のど真ん中をつらぬき、それはよろめき、のけぞった。
 すばやく薬莢を排出して、次の弾丸で眉間を撃ち砕くと、たまらずにそれは仰向けに倒れたものの、平然と身を起こし、焼け焦げた足を引きずるようにして社殿の外に踏みだそうとした。
 だが五輪の塔を踏み越えようとしたとたん、地面から蒼白い光が立ち昇り、たまらずに後ずさった。
 これこそ津田家の先祖が残した、最後の封印ともいうべき結界であった。
「松井さん、早く逃げて!」
 加奈子が叫んだ。
 もう銃弾は残っていない。しかし松井は振り返ろうともせずに銃剣を抜きはなち、銃身の先端にしっかりと固定した。
――必ずや、絹子の恨みを晴らしてやる。晴らさずにおくものか!
 松井は銃剣を装着したことによって、自分の背丈よりも長くなった銃を握りしめて、突撃を開始した。
 そのとき閃光が走り、耳をつんざくような轟音とともに社殿の裏に雷が落ちて、大木が地響きをあげて社殿の残骸に倒れかかり、五輪の塔の一つが砕け散った。
 それは喉の奥から不気味な笑い声をあげ、ついに結界を越えて外に踏みだした。
 同時にその身体に、驚くべき変化が生じた。
 下顎骨の奥からピンク色の肉芽がのびて、それが蛞蝓のようにうごめきながら舌になった。
 頭蓋の奥には灰色の脳細胞が生まれ、そこから伸びた白い神経組織と毛細血管が絡みあって眼窩で白いどろどろとした塊を作り、その中に生じた黒い瞳が、じっと松井を睨みつけている。
 骨の表面には薄い皮がはり、それが見る見る骨の隙間を埋め尽くし、やがてほっそりとした鼻梁が盛りあがり、匂うように美しい女になった。
「我は蘇ったり。花よ、木よ、出でよ」
 清々しい叫び声とともに、女のまわりではあっという間に火が消え、舞台が迫りあがるようにして、薄桃色の花をつけた桜の木々が忽然と姿を現した。
 どこかで、鶯の鳴く声がした。遠くの街道を行く人馬のざわめきや、物売りの声までもが聞こえてくる。
 まるで時の壁を超えて、中世の日本がここに蘇ったかのようだ。
 しかもこれは幻ではない。風に吹かれて肩にこぼれ落ちた桜の花びらは、甘い懐かしい匂いをさせているではないか。
 赤い内掛けを腰に巻いた女は、満開の桜の木を見あげてとろけるような微笑を浮かべた。
 美しいという言葉では到底言い表すことのできない典雅な光景を目にして、松井は涙が止まらなくなった。
 この土地に祀られ、禍津神となって呪いと災いを振りまいてきた濃姫が欲していたものは、この美しい平和な空間だったのかもしれない。
 いくつかの偶然が、美しい高貴な姫君を鬼に変えた。
 それは、自分の人生も同じであった。
 ほんの少しなにかが違っていれば、自分は絹子と夫婦になって、死ぬまでともに暮らすことができたかもしれないのだ。
「無念な……無念な……」
 松井は銃剣を抱え、膝をついて号泣した。
 そのとき稲妻が天空を駆け抜け、傍らの桜の根元に転がる黒い塊を照らしだした。
 毛皮のようなものの中央が割れて、ピンク色の肉が覗いている。
 おそるおそるしゃがみこんで手にとると、それは毛髪を生やした絹子の首であった。
 顔面に付着した灰と土をきれいに拭いとってやると、赤紫色に焼け焦げ、苦痛に歪んだ顔の真ん中で、本来ならもう残っているはずのないガラス玉のような目が哀しげに松井を見つめている。
 瞬間、悲しみは怒りに変わった。
――絹子をこんな目にあわせた奴を、断じて許すわけにはいかん。
 そっと首を桜の木の根元に戻すと、松井はぎりぎりと歯を食いしばって女に突きかかっていった。
 そのすさまじい気合に呑まれて、一瞬棒立ちになった女の胴体に、銃剣を突きたてた。
 どっしりとした手ごたえとともに、銃剣は肋骨を砕いて深々と胸を抉った。
 勝ち誇って銃剣を引き抜こうとしたとたん、女は片方の手でがっしりと銃身を掴んだ。
「汝の働きに報いるため、死をあたえん」
 冷たい笑みを浮かべながら、女はもう一方の手で松井の手を握った。
 達也の心臓を止めた殺人電流が、松井の心臓に流れこみ、心臓の電場を狂わせた。
 だが、松井の強靭な心筋は頑然と血液を送りつづけ、むしろその圧力に耐えきれなくなった動脈が裂けて体内に血をばらまいた。
「わしは、死ぬことなんざ、なんとも思とらへんのや。貴様さえ殺したら、いつでも死んだるわ!」
 叫びながら、あるかぎりの力で銃をねじり、女の身体を抱えこんで背中から剣先を突きだした。
 女は狼狽し、かろうじて松井の身体を銃剣ごと引きはがしたものの、胸には大きな傷口が開き、血がほとばしっている。
 呆然と死闘を見つめていた加奈子は、苦しげに喘ぐ女を見て、はっと我に返った。
 社殿に祀られていた女は、絶対不可侵の存在であった。だがいま女は、己が魂を肉体に縛りつけてしまっている。
――いまなら、あいつをやっつけることができるかもしれない。いまなら!
 沸きたつような思いに衝きあげられて駆け戻った加奈子は、松井の手から銃剣を奪いとるや、力のかぎり女の顔面に突きたてた。
 バキッと音をたてて眉間の骨が砕け、銃剣の剣先は頭蓋骨に食いこんだ。
 女はすさまじい悲鳴をあげてのけぞり、血と脳漿で斑に染まった顔面を怒りにゆがめ、やみくもに掴みかかってきた。
 そのとき、目も眩むような閃光が山肌を駆け抜けた。
 山火事の引き起こした上昇気流によって吸いあげられた土壌の微粒子は、上空で帯電して巨大な雷雲となり、山肌に夥しい遊離電子を引き寄せていた。
 その電荷がついに臨界点に達し、数億ボルトの高圧電流となって、銃剣を通って天空へと駆けのぼったのだ。
 加奈子は最初の雷撃で弾きとばされたが、放電は一度では終わらなかった。
 雷雲と山肌の双方に蓄えられた膨大な電荷は、天から地への落雷となり、また地上から天空への雷撃となって、幾度も山肌を駆け抜け、女の身体を貫いた。
 アアアーッ
 頭蓋骨は砕け、脳漿は蒸発し、地獄の果てまで届くような悲鳴をあげて、女は細胞の一つひとつまで焼け焦げて跡形もなく散らばった。
 それが合図であったかのように、空からごうごうと雨が降りだした。
「松井さん! しっかりしてください」
 加奈子は子供たちを先に逃がし、松井を肩にかついで山をおりはじめた。
「わしはもうあかん。あんただけでも、逃げてくれ……」
「なにをバカなことを言ってるんですか。絹子さんの分まで生きるんです」
 加奈子は、雨の音に負けまいと叫んだ。
 そのとき県道の方から、何台もの消防車のサイレン音が聞こえてきた。
 そして子供たちを発見した消防隊員たちが、斜面を駆け登ってくるのが見えた。

(トップ画像 母子像 著作者: freepic)