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The Digital Devil Story                     第三巻 転生の終焉         序章

黄泉の空は薄墨を流したように重く澱み、生温かい風が不毛の大地を舐めるように吹いていた。

その大地に聳える岩山の間を縫うようにして、緩やかな上り勾配を描く坂道がどこまでも続いている。

 神話時代、イザナギがイザナミの追跡を逃れ、ひたすら駆け抜けた黄泉比良坂である。

 かつて現世の豊葦原へと続いていたその坂道の頂きに立ったイザナミは、美しい瞳を次元の壁ともいうべき目の前の厚い闇に向けていた。

 黄泉と現世という、二つの異なる次元を結ぶ通路が、完全に閉ざされてしまったわけではない。

 けれども今のイザナミには、眼前の闇を抜けて現世に向かうだけの力は、もはや残されてはいなかった。

 次元の彼方で繰り広げられている、熾烈な戦いの行方が、気になってならないのだろう。その唇が、熱い吐息をもらす。

 そのとき背後で、人のものとも獣のものともつかぬ叫び声がした。

(あれは、黄泉醜女の……?)

 虚空を舞う、星とも人魂ともつかぬ無数の光が不安をかきたてる。

 闇に背を向けて、小走りに坂道を下りはじめたイザナミは、ぬらりとしたものに足をとられて、思わず前につんのめった。

 すると傍らの岩陰に、十文字に腹を裂かれ、血にまみれた黄泉醜女の屍が横たわっていた。

「誰が、このようなむごいことを……」

 油断なくあたりに気を配りながら、哀れな亡骸に手を触れたとき、何者かの気配がした。

 ハッと顔を上げたイザナミは、いつの間に現れたのか、全身から黄金色の燐光を放つ美しい若者と目を合わせて息を呑んだ。

 膝までの貫頭衣に包まれた、均整のとれた体。

 名工の手も及ばぬ繊細な顔立ち。

 その表情に微かな影を投げかけるブロンドの巻き毛。

 そして冷たさと高貴さの入り混じった碧い瞳。

「おまえが……醜女を?」

 感情を抑えた声が問いかける。

 だが若者は腕を組んで、氷のような目でイザナミを見つめるばかりである。

「私はこの黄泉を司る者。狼籍は許しませぬぞ」

 イザナミは、厳しい眼差しで若者を睨みつけた。

 だが若者は、女神の怒りを平然と受け流し、

「残念ながら、たった今から黄泉を支配するのはこの私になった」

 冷たく言い放つと、組んでいた腕を静かにほどいた。

「無礼な」

 イザナミの鳶色の瞳が、朱の閃光を発したかと思うと、若者の胸に赤光が立った。

 イザナミの霊力自動発火である。

 が、赤光はその熱で若者を燃やすこともなく、体を包む黄金色の光の中に吸い込まれるように消えた。

「天界にも地獄にも名をとどろかせた、女神イザナミの力は、この程度のものなのか……」

 若者は呟きながら、イザナミに向かって踏み出した。

「さがれ!」

 叫びざまに、イザナミの右腕が若者をめがけて空を薙いだ。

 その念動力をもろに受けた地表に、深いクレバスが生じるほどの一撃である。

 しかしその衝撃さえも、若者の美しい体に傷一つつけることはかなわなかった。

「おまえは、何者じゃ……」

 歯がみするイザナミには構わず、若者は凛とした声を放った。

「ゴーレム、いでよ!」

 すると背後の岩陰に身を隠していた巨人が、ぬらりと姿を現し、大木のような腕でイザナミの体を後ろから抱きすくめた。

「卑怯な真似を!」

「卑怯? ゴーレムに正面から抱きつかれたのでは、お前もたまらぬだろうと、気を配ってやっているのだぞ」

 巨人の腕から逃れようとしてもがき続けるイザナミを、若者は愚弄した。

「おまえは何者じゃ。何のために、こんなことを……」

「私の名はルシファー」

 若者は含み笑いしながら、名乗りをあげた。

 イザナミは驚きに目を見開いた。

 ルシファーの名には、それだけの力があるのだ。事実、ルシファーはロキやセトとは比較にならぬほど高位の悪魔である。いや、そもそも彼を悪魔と呼んでいいかどうかすら、知る者はいない。

 彼を、神に伍する存在とみなす人もいれば、神よりも古き者と称える人々もいる。

 それが事実かどうかはともかく、若々しく美しい外見にも関わらず、イザナミがこの世に生まれるはるか以前から、ルシファーが存在していたことは疑いのない事実である。

「私が支配する宇宙と、この黄泉を隔てていた、セトの宇宙はすでに消え失せた。それで私がここに現れたというわけだ」

「おまえも、中島を使って現世に降臨しようとしているのですね?」

 無意識のうちに、イザナミの口調には畏れが入り混じっていた。

「愚かしい。そのような者の手を借りるまでもなく、この黄泉には現世につながる道があることを、私が知らぬとでも思うのか?」

 黄泉比良坂の彼方を指すルシファーに、イザナミの顔から血の気がひいた。

「だが、私があの闇の壁を抜けるのは、まだ先のことだ」

「……」

 彼が、なにを意図しているのかを測りかねて沈黙するイザナミに、ルシファーは哀れむように言葉を継いだ。

「私は現世に、神として降臨せねばならない。愚かな中島とやらが、ちょうどその下準備をさせるのに手頃な小悪魔どもを、現世に送り込んでくれたのだからな。イザナミよ、とくと見るがいい!」

 ルシファーは、鈍色の空に向かって腕を薙いだ。

 と、その指先から放たれた妖しい風が渦を巻き、やがて中空に一人の妖精のように美しい女の像を描きあげた。

「わが下僕セイレーンは、歌によって人を操る」

 微笑みながら、ルシファーが腕を翻す。

 たちまち女の姿は消え失せ、中空のスクリーンには、白い壁を背景にした二人の人影が浮かびあがった。

「あれは、弓子と中島……」

 病室のベッドに半身を起こした弓子の、包帯に覆われた痛々しい顔に、イザナミは思わず声を呑んだ。

 いまのイザナミは、星々の動きから、かろうじて現世の有様を推測することができるにすぎない。

 一方のルシファーは単に現世を透視するだけではなく、その有様を第三者にまで見せることができる透視の力を備えているのだ。

 この一事だけをもってしても、二人の力の差は歴然としていた。

「イザナミよ、よく見るがいい。お前の大切な若者達は、すでに私の配下に囲まれている」

 ルシファーは、病室の窓辺に群れ集う、朧ろな蒼白い影を指さした。

「あれは夢によって人を苦しめる、夢魔の群れだ」

 囁くように悪魔の名を告げると、ルシファーは再び腕を払った。

 一転して空中には、うす汚れたコンクリートの壁に蠢く無数の眼球が現れた。

「セトの下僕のラルヴァどもだ。あのような者どもを抹消するのは、いともたやすいことだが、しばらくの間は人の世を乱すために生かしておこう」

 ルシファーの呟きが届いたのか、眼球の群れはずぶずぶとコンクリートにめり込んでいく。

 次の映像にはでっぷりと太った壮年の男が登場した。セトの放ったアピぺに体を蝕まれつつある、自由党幹事長の太田である。

「奴には、これから私のために働いてもらわねばならぬ。それ故、奴にとり憑いたアピぺは抹殺する」

 ルシファーが指を鳴らすと、瞬く間に透視映像は消え失せた。

「お前の大切な中島は、魔物として人々から忌み嫌われる運命にある。私はその魔物を退けるために、現世に神として降臨するのだ」

 ゴーレムの怪力に、抗う気力も失ったイザナミの乱れた髪に手をやると、ルシファーは強引に唇を寄せた。

「すべてが終わったとき、お前は私の妃となるだろう……」

 顔をそむけたまま屈辱に耐えるイザナミに哄笑を投げつけると、ルシファーは右腕を頭上高く掲げた。

 と、はるかな上空から三つの光点がまっしぐらに降下してきたかと思うと、三羽の白い鳩に姿を変えて、ルシファーの周りを輪舞しはじめた。

 姿形こそ清らかではあるが、鳩の目はいずれも邪悪な紅色に染まっている。

「使い魔よ、現世に降臨した小悪魔どもが私の指図を待ちかねておる。行け! 私になりかわって奴らを操るのだ!」

 ルシファーの指す闇に向かって、紅の目をした鳩達は一直線に飛び込んでいった。

 

その日、飛鳥に住まう人々は、白鷺塚から飛びたった三羽の白鳩が、ひたすら東をめざして天駆けてゆくのを見た。