The Digital Devil Story 第三巻 転生の終焉 第四章 魔性現出
1
お茶の水、東京インターナショナル・ホスピタル。
弓子が収容されている病室の掛け時計は、午前二時をさしていた。
弓子は軽やかな寝息をたてて、安息の中にあった。
側のベッドに腰かけて、死人のような顔を床に向ける中島の傍には、
「悪魔、渋谷に出現す」
「セイレーン、悪魔を撃退」
と、派手な見出しを掲げた新聞が、乱雑に折りたたまれていた。
(悪魔がまた現れた……歌で撃退するなんて、本当にそんなことができるのか?)
悪夢を見ることを怖れて、脈絡のない思考を重ねていた中島の瞼が、単調な時の流れに耐えかねたように閉じ合わされる。
と、折りたたんだ新聞紙がザワザワと音をたて、突如として数十の蒼白い影が陽炎のように病室の闇に浮かびあがった。
「お前たち……」
見開いた中島の目にはそれらの影が、今は亡き級友達の怨めしげな首に見えていた。
「バカな!」
呻きをもらす中島を嘲笑うかのように、首は凄まじい表情で中島に迫ってくる。
(どうして、あなた一人が生き残っているの。)
(罪もない俺達を殺しておきながら……。)
窓を揺さぶる夜風の音は、級友達の怨嗟の声であった。
「俺に、死ねというのか?」
中島はうつろな目を宙に向けた。
(そうだ。ヒノカグツチの剣を、自らの胸に突き立てろ。)
灰色の顔を血の涙で濡らしたイスマ・フィードの首が、中島の眼前を通りすぎた。
「死ねない、この娘が……」
安らかに眠る弓子を見て、中島は押し殺した声をあげる。
(お前にさえ出会わなければ、この娘は幸せに暮らせたものを。)
ひときわ冷酷な微笑をうかべて中島のまわりを回るのは、小原の首であった。
返す言葉もなく歯がみする中島の傍らで、どんな夢を見ているのか、弓子が童女のように微笑んだ。
「…………」
中島は、そのうすく開いたつぼみのような唇に救いを求めて、ふらふらと立ち上がった。
と、弓子の口から吐息に混じって吐き出された二つの影が、
(お前さえいなければ。)
(お前さえいなければ。)
呪詛の言葉を吐き散らしながら、弓子の両親の顔となって天井に吸い込まれていった。
「そんな……」
凍りついたように動きを止める中島の足元から湧き出した影は、空中に滞ると美しい女の顔になって、哀しげな微笑を浮かべた。
「朱実、あなたは生まれてくるべきではなかった」
「母さん……嘘だ!」
暗く落ち窪んだ目に涙を浮かべて、母の顔を睨みつけていた中島は、大股で部屋の隅にある小机に駆け寄った。
机の上には、フィード教授から贈られたPCがあった。
電源を入れると、ディスプレイの光が中島のすさんだ顔を照らし出し、背後にまといつく級友達の顔がディスプレイの表面に映し出された。
中島は歯をくいしばってキーボードを叩くと、プログラムを呼び出した。
「消えてしまえ、消えてしまえ、お前達など!」
震える指がエンターキーを押す。
きめの細かいモノクロのディスプレイが素早く明滅したかと思うと、召喚された電子獣が、たてがみをなびかせて、中島の前に姿を現した。
「ケルベロス!」
椅子を蹴って立ちあがった中島は、電子獣の剛毛に覆われた首に両腕をまわして、頬ずりをした。
グルル
喉を鳴らして愛撫を受ける電子獣の目が、部屋に群れ集う蒼白い影に気づいてギラリと光った。
「ケルベロス、こいつらを追い払ってくれ」
喘ぐような声を聞いて、電子獣は音もなく飛んだ。
が、その牙は影をすりぬけて、かすかに空を切る音を深夜の病室に響かせるにとどまった。
弓子が、これだけの騒ぎに気づかずにすやすやと眠り込んでいるのは、やはり夢魔の術中に陥っているのであろうか。
(追い払えるものなら、追い払ってみよ。)
影達は一斉に中島の体にとりついて、その全身をうっすらとした明かりに包み込んだ。
ウー
電子獣も実体のない相手になすすべもなく、低い唸り声をあげるばかりである。
「ケルベロスよ、ぼくを噛み殺してもいい。こいつらを消し去ってくれ!」
哀願するように、中島は電子獣ににじり寄る。
電子獣は、大きな目で困惑したように中島を見つめ、後ずさる。
「やるんだ、ケルベロス!」
獣のたてがみに手をかける中島の顔は、半ば狂気に染まっていた。
クゥーン
哀しげな鳴き声をあげて中島の手をふりほどくと、電子獣は自らの意志で彼の属すべき次元に還って行った。
(魔獣にも見放されたか。)
(いよいよおしまいだな、お前も。)
哄笑をあげる影を、憑かれたように見つめる中島の目に、すでに意志の煌きは見られなかった。
あるいは本能が、それ以上の苦しみを忌避するために、一時的に五感を断ち切ってしまったのかもしれない。
(それならば、それでよかろう。)
幾十もの影はひらりと身を翻すと、一斉に弓子めがけて降りかかっていった。
そのときすでに夢魔の作り出す世界に封じ込められていた弓子は、少女時代をすごした札幌市の大通りを、旧友達と談笑しながら歩いていた。
黄金色に染まったポプラ並木の美しさに目を奪われて、ふと立ち止まったとき、おりからの風がザワザワと梢を揺らして葉を散らせたかと思うと、突然大柄な美しい女が目の前に立ちはだかった。
(小原先生……。)
怪訝そうに小首をかしげる旧友達の傍で、弓子の顔から血の気が引いた。
弓子と視線を交じえてニヤリと笑った小原の口が、耳元まで裂けた。
かと思うと次の瞬間、見る間に膨れ上がった小原の腹が柘榴のようにはじけ、噴き出した血潮が弓子の顔を紅に染めた。
キャーッ
立ちすくむ級友達を残し、弓子は脇の小路に駆け込むなり、走りに走った。
どれほどの距離を、駆け続けたことか。
息を切らしてアスファルトの上に膝をついた弓子は、髪を焦がすような臭いを間近に嗅いだ。
たちまち弓子は異臭の正体を悟って、顔を両掌で覆った。
パチ、パチ
肉のはぜこげる音とともに、異臭はさらに強まった。
(ユ、ミ、コ……。)
見るまでもなかった。
弓子がやむなく手にかけた中島の母親が、全身に炎を纏いつかせたまま、血まみれの手を差し伸べているのである。
「お願い、やめて――」
何度も転びながら、走り続ける弓子の前方に、一条の光がさした。
思わず見あげた空に、巨石の立ち並ぶ飛鳥の蜃気楼が浮かんでいる。
「弓子、来るのです」
その一郭から、優しく強い響きを持ったイザナミの声が伝わってきた。
「イザナミ様――」
泣きながら蜃気楼に向かって駆ける弓子の後ろ姿を、亡者達が愉悦を込めた目で見つめていた。
2
京浜急行大森海岸駅から、環状七号線にそって車で五分ほど新宿方向へ入ったところに、煉瓦外装の十階建ての高級マンションがある。
その四階に、村井の一家は住んでいた。
もとは高校の数学教師だった父親は、彼が中学一年のときに進学塾の経営に転身して、それなりの成功を収めていた。
だが、家庭を顧ない父親に愛想をつかして母親は家を飛び出し、村井は高校一年生のときに新しい母を迎えることになった。
優等生だった村井が学校をさぼり、悪友達とつき合うようになったのは、ちょうどその頃からである。
息子に負い目を感じているのか、父親は仕事の忙しさにかまけて、厳しく注意を与えるわけでもなかった。
十月十日、午後九時。
渋谷でセイレーンに撃退されたショックが尾を引いているらしく、今のところ室町と北園が次の行動を起こす気配はない。
久しぶりに二人から解放されて自分の部屋に閉じこもった村井は、明かりもつけずにうずくまって、良心の呵責に耐えていた。
(これ以上、人殺しの手伝いはまっぴらだ。だけど、逃げたら確実に奴らに殺される。)
もう幾度も繰り返した思考の堂々巡りを、ドアから顔を出した可憐な顔立ちの少女が断ち切った。
まもなく五歳になる、妹の由加利である。
まだ歯も生えそろわないうちに、母親に捨てられた妹に対する憐憫混じりの愛情が、彼をかろうじてこの家に留めていた。
もっとも由加利は優しい継母によくなついており、村井が継母に口論をふっかけたりすると、舌っ足らずな幼児言葉を駆使して、継母の味方をするのが常であった。
「まっ暗にして、何してるの、お兄ちゃん?」
由加利がさらさらした髪を肩にはわせて、村井の顔を覗き込む。
「あっ……ああ」
村井は、おもむろに立ちあがって照明のスイッチを入れた。
「ねー、お兄ちゃん」
小さな手が、抱擁を求めてジーンズの膝のあたりを叩く。
父親には決して見せることのない仕草。それは村井の秘かな誇りでもあった。
「よっしゃー、高い高いするぞ」
「やったー」
抱き上げられた由加利は、歓声をあげると、村井の顔からサングラスをむしり取った。
「こらこら」
わざとしかめ面をして、ふわりと暖かい体を抱きしめる村井。
その胸に体をあずけてはしゃいでいた由加利が、突然眉をしかめた。
「お兄ちゃん、臭いよ」
「ン?」
由加利を降ろしてジャンパーの胸のあたりに顔を寄せると、たしかに獣のものに似た異臭が嗅ぎとれる。
(これは、あいつらの……。)
血の気のない顔で立ちつくす村井に、
「だめよ、ちゃんとお風呂に入んなきゃ」
由加利は母親のような口調で叱りつけると、部屋を出ていった。
3
十月十一日。
プリンストンホテルの周囲には、朝早くからセイレーンの姿を一目見ようとする人々の厚い人垣ができていた。
「なんか、今までと雰囲気が違うな」
「年輩者が多いんじゃないか?」
「大破壊で親族を悪魔に殺された連中が、渋谷事件のことを聞きつけて、続々と入信してきてるんだってさ」
教団事務所から、群集を見降ろして囁いている事務員達の声を、人々の歓声がさえぎった。
「セイントが、お出ましになったぞ」
一人が、緊張した声をあげる。
「ちょっと早いが、行くか」
午前七時十五分を表示する壁の時計に一瞥をくれると、田代は無表情にオールバックの髪を指ですいて立ち上がった。
猿渡は予定より早い出発に、慌てて事務員達に後のことを託している。
「今日はどこへ行くんだい?」
大野木が、田代に声をかけた。
「南としか聞いていない」
「また悪魔が出るのかな?」
「知らんな」
自分達の思惑を超えて一人歩きするセイレーンを厭わしく思いながら、田代は投げやりに会話を打ち切った。
4
二日前、百名あまりの信者を従えて渋谷に出現したセイレーンが、今日は一万人の大群集を引き連れて明治通りを南下していた。
マスコミはそれを聖者の行進と名づけ、首都圏のニュース番組では大々的に報道した。
午前十一時、表参道を横切った一団が神宮前に達したころには、噂を聞きつけて集まった有象無象の人々が隊列に加わり、その数は二万人を超えていた。
午後二時をまわり、セイレーンが行先も告げないまま、環状七号線に踏み入ったあたりからは、さすがに落伍者が目立ちはじめた。
それでも、薄暮の街角でセイレーンが歩みを止めて、人々を鼓舞するように美しい声で歌いはじめたとき、まだ五千あまりの人々が彼女に付き従っていた。
しかも彼らのほとんどは、大破壊によって肉親を失い、悪魔に対して強烈な憎しみを抱く人々であった。
十時間にもおよぶ行進で汗と埃にまみれた人々の顔は、むしろ悪魔の出現を待ち望んでいるようにも見えた。
ビゼーの「カルメン」にも似た旋律を詠唱するセイレーンの後ろには、村井一家が住むマンションが建っていた。
セイレーンの歌に煽られ、ギラギラと異様な輝きを宿しはじめた群集の目が、常夜灯に浮かぶ高級マンションの重厚な壁面を幾度となく往き来していた。
そのころ村井家のキッチンでは、まだ三十歳を少し超えたばかりの継母の早百合が、夕飯の仕度に勤しんでいた。
(あの子ったら、しばらく家にいたと思ったらまた外泊かしら。お父さんが甘すぎるんだわ。)
口もきかずに外出した無愛想な息子の顔を思い出すと、思わず包丁を持つ手に力がこもる。
そのとき早百合の視界の片隅を、テラス窓を開けてベランダに向かう由加利の姿がよぎった。
(テレビを見ていたはずなのに、どうしたのかしら?)
包丁を手にしたまま振り向くと、
「ママー、たいへん!」
由加利が素っ頓狂な叫び声をあげた。
「どうしたの?」
娘の後を追ってベランダに飛び出してみると、どこからやってきたのか、無数の人々がマンションの前に群がっている。
中には、エントランスにまで入り込んでいる者も少なくない。
窓という窓からは、住人達の好奇心と煩わしさの入り混じった顔がのぞいているが、群集の勢いに怖れをなしてか、だれ一人制止しようとする者はいない。
(そういえばテレビで、聖者の行進とかいっていたけど、まさかこんなところへ……。)
「ママー」
足にしがみついてくる由加利を抱きあげながら、早百合は群集の中央に陣取って歌う、ブロンドの美しい女を見て、やはりその集団は聖セイレーン教団なのだと悟った。
女の肩では白い鳩が首を巡らせながら、今にも羽ばたこうとしている。
やがて舞い上がった白鳩は、二度、三度と空を旋回すると、マンションの間近に滞空して、くちばしで壁面をついばんだ。
その瞬間、黒々と屹立していた壁面が音もなくうねり、波うち、ゼリーのように透明感を増したかと思うと、たちまちそれは鮮烈な映像を映し出す巨大なスクリーンと化していた。
群衆は、一斉にどよめいた。
スクリーンには、魔物に襲われた渋谷の街の惨状が克明に再現されている。
早百合も、息を呑んでその光景に見入った。
「悪魔に死を!」
自然と湧き起こったシュプレヒコールの中を、映像は退魔の歌を唄い続けるセイレーンの勇姿を、そして歌声に追われて逃げまどう魔物達の姿を報じていた。
半ば人の姿を取り戻しつつ、公園通りを逃げ登った魔物達を白い車が拾いあげる。
その運転席にサングラスの男を見つけたとたん、
「あれは!」
早百合は心臓が止まったのではないかと錯覚した。
(そんな、まさか……)
由加利を抱いたまま、呆然と立ちすくむ早百合の頬をかすめて、白鳩が飛び去っていく。
「悪魔はあの家に!」
詠唱を止めたセイレーンの指は、まさに村井家のベランダに向けられていた。
思いもかけない成り行きに我を失った猿渡を尻目に、大野木が群集を煽るように喚声をあげている。
田代の顔からは血の気が引いていた。
「セイント、皆を止めて下さい。下手をすると暴動になってしまう」
懸命に制止する田代など眼中にない様子で、セイレーンは再び聖歌を唄いはじめる。
「大野木、セイントを群集の外にお連れしろ! とにかくこの騒動にこれ以上かかわってはいかん!」
大野木は不満げに眉を寄せながらも、とりあえずは田代の意見に同意して、セイレーンを抱きかかえるようにして人の流れに逆らって後退をはじめた。
「悪魔に死を!」
憑かれたようにマンションの中に踏み入ってくる暴徒を目にするや、早百合は怯えて泣きじゃくる由加利を抱きすくめて、リビングルームに駆け込んだ。
(まさかあの子が……。)
高なる心臓が、思考の脈絡を断ち切った。
(どちらにしても、早くここを逃げ出さなければ……。)
そうこうするうちに、すでに暴徒は廊下に面したガラス窓をうち破って、屋内に侵入しはじめていた。
「どこだ! 悪魔を出せ」
まっ先に押し入ってきた白装束の男が、口をきくこともできずに震えている早百合の胸ぐらをつかんだ。
「お母さんを、いじめちゃだめー」
「やかましい!」
泣きじゃくりながら、まとわりついてくる由加利を邪険に蹴り払う男の目は、悪意と憎しみに満ちていた。
次々と土足で部屋に踏み込んできた男達に取り囲まれ、殴られ、早百合は意識を失ってしまった。
どれほどの時間が経ったのか、つんざくような由加利の悲鳴に、ようやく我に返った早百合は、渦巻く煙にむせかえった。
視野を覆い尽くす白煙のそこここに、カーペットを舐める赤い炎がのぞいている。
暴徒の群れは家中を探し回り、村井がここにはいないとわかった腹いせに、家具という家具を壊したうえに、キッチンの油を撒き散らして火をつけていったのだ。
「由加利……」
早百合は娘を抱きしめて、本能的にベランダに向かって這い進んでいた。
その頃。
環状七号線と池上通りのぶつかる交差点を抜けた村井の車は、自宅まであと数分というところで、渋滞に巻き込まれてしまっていた。
それが聖なる行進によって引き起こされたものだと、村井が知る由もない。
もやもやした気持ちを晴らすべく、あてもないまま家を飛び出した村井ではあったが、ハンドルを握っていても、どうすれば室町達から逃れることができるかということばかりを考えてしまう。
そしてとうとう、「自首するしかない」と決断した。
(週刊誌の記事だと、対悪魔法は密告者には寛大らしい。自首すれば、俺も鑑別所送りくらいですむかもしれない……。)
と、考えたのである。
それにしても、あまりにもひどい渋滞ぶりに焦燥感をつのらせてクラクションを叩きつけたとき、つけっ放しのラジオが、渋滞の原因が聖セイレーン教団の動きにあることを告げた。
(セイレーンだって?)
思わずドアを半開きにして身を乗り出した村井の耳に、人々の唱和する声が飛び込んでくる。
「悪魔を殺せ、悪魔を殺せ……」
言い知れぬ不安に、唾を呑み込んだ村井の頭に、得体の知れぬ声が告げた。
(逃げろ、死にたくないなら逃げるのだ……。)
リアウインドにとりついた一対の銀色の目が、驚いて振り向いた村井の視線を捉えた。
それが何者であるのか、村井は知りすぎるほど知っていた。
最後に室町のアパートを訪れたときにくっついてきたのだとすれは、それはもう三日間も、彼が心に隙を作るのを待ち構えていたことになる。
が、今の村井にとって、ラルヴァに対する怖れなど二の次であった。
(もしかしたら家族が……。)
恐ろしい予感が、村井の胸をしめつけていた。
(その通りだ。お前の正体はすでに知れ渡った。お前の恐れているとおり、家族が替わりに処刑されているところだ。)
「そんな……」
狼狽して車を飛び出した村井の背に、リアウインドを遊離した銀色の目が、ピタリと吸い着いた。
群集をかきわけてマンションにたどり着くと、もうもうと吹きあげる煙にまかれて、義母の早百合がベランダを右往左往していた。
早百合はぐったりとした由加利を片腕に抱き、必死でベランダの仕切りを叩き続けている。
だが、非常時には隣家に逃れることができるように作られているはずの仕切りは、棚やテーブルのバリケードに邪魔されて、びくともしない様子である。
「なんてことを……」
村井の嘆きをよそに、マンションを取り巻く群集は救いの手を差し伸べようともせずに、憑かれたようにベランダを見あげている。
やがて室内を燃やしつくした炎はいよいよ火勢を強めて、ベランダにまでその赤い舌を伸ばしはじめた。
炎を背中に受けながらも、由加利を庇うように抱きしめていた義母は、群集の中に村井の姿を見いだした瞬間、堪えにこらえていた感情を爆発させた。
「悪魔―!」
いわれなき迫害を受けた恨みと怒りを村井一人にぶつけ、火の粉をかぶった髪を振り乱して、手すりから身を躍らせた。
一瞬、時が凍りついたかのような沈黙があたりを支配して、グシャッといういやな音をたてて、二つの体は地面に叩きつけられた。
たちまち人々の間から、喚声が湧き起こる。
(愚かなことよ……。)
ラルヴァの嘲笑を背中に聞きながら、村井は狂ったように二つの体の落ちたあたりに駆け寄った。
血だまりの中に倒れた義母の体の下から、微かな呻き声がもれてくる。
「由加利!」
虫の息の妹を抱きあげる村井を、じわじわと人垣が囲む。
「この悪魔が!」
つめ寄ってきた中年の女が、金切り声をあげた。
村井は振り向きざまに、女の肉のたるんだ顎を、妹の血に染まった拳で殴りつけた。
キャーッ
のけぞる女を受けとめた人垣に、狂暴な意思が走った。
「そいつを殺せ!」
津波のように押し寄せる人々の手が、村井の服をつかんで引きずり倒す。
腕から滑り落ちた由加利の背中を、若い女のピンヒールが踏みつけた。
ボギッ
骨の砕ける鈍い音が、村井の心にかつて感じたことのない怒りをたぎらせた。
(殺してやる!)
(よかろう……。)
体奥に禍々しい声を聞いた瞬間、村井は脇の下に異様なむずがゆさを覚えた。
「死ねー」
一人の男が村井の背中に馬乗りになり、首をしめつけた。
そのとき村井の脇の下から、毛むくじゃらの二本の腕がスッと伸びあがり、哄笑する男の口に手をかけたかと思うと、勢いよく引っ張った。
次の瞬間、男の下顎はバキッと乾いた音をたててちぎれ、コンクリートの上に転がった。
ゴボゴボと音をたてて、喉から鮮血を吐き出す男を押しのけて、村井は立ちあがった。
その両脇からは、阿修羅像のように、新たな四本の腕が突き出している。
悲鳴とともに、人垣が崩れた。
が、村井は逃げ惑う人々に背を向けると、血まみれの妹の傍らに静かに跪いた。
剛毛の生えた六本の腕で妹の亡骸をかき抱き、心臓の鼓動を聞こうとでもするかのように、胸に顔を押し当てる村井の銀色の目は、涙にぬれていた。
5
次の朝、雨にけむる霞が関の警視庁舎の周りに、無数の傘の花が開いていた。
殺人教唆の疑いで収監されたセイレーンを気づかう信者達が、続々とつめかけているのである。
「教団は、どうなるんだろう?」
口々に囁きながら庁舎を見あげる老若男女の表情を、テレビ局の中継車があますところなく捉え、全国の家庭に送りつけていた。
十一階にある執務室から眼下の傘の花を見降ろしていた水田警視総監は、しかめ面で内線電話を取り上げた。
「公安部長か? デモの煽動者は捕えたのだろうな」
割れた声が苛立たしげにいう。
「総監、これはデモではありません。聖セイレーン教団の信者と称する者達が、自由意志で集まってきているのです。あえて煽動者を抑えろと言われるなら、マスコミの報道を規制するしかありません」
「………」
額に青筋をたてて押し黙る水田に追い討ちをかけるように、
「長官、セイレーンを釈放しないかぎり、この騒ぎが収まるとは思えません」
電話の向こうから、公安部長の思いつめた声がする。
「暴動の煽動者を、やすやすと釈放できるか! 自白はまだとれんのか!」
「猿渡という男は崩れかかっておるのですが、他は頑強に黙秘権を行使しておりまして」
公安二課の担当刑事が、彼女に魅了されて釈放を要求しているなどとは口が裂けても言えるはずはなく、公安部長は言葉を濁した。
「そいつを締めあげるのが、お前らの仕事だ!」
受話器を叩きつけると同時に、ノックの音がした。
返事を待たずに、副総監が顔を出す。
「総監、自由党の太田幹事長がおみえですが」
「待ってもらえ。こっちはそれどこじゃないんだ」
「それがそうもいかんのだ。セイレーンを釈放するようにという、首相からの親書を預かっておってな」
突き出した太鼓腹で副総監を押しのけるようにして、太田自らが総監室に踏み入ってきた。
「総監、マスコミによれば、警視庁は悪魔を発見、撃退したセイレーンを不当に逮捕拘束しているそうだが、それは本当かね?」
「その過程で、罪もない母子が暴徒に殺されているのですぞ!」
「それをセイレーン、ないしは使徒が指示したという証拠でもあるのかね?」
「その確証をとるのが、われわれの仕事です!」
「いいかね総監……」
太田は尊大に胸をそらすと、窓辺に歩みよって眼下の群集を指さした。
「今は国をあげて、悪魔を駆逐せねばならない時だ。人々を、反悪魔に向けて結集させる力のあるセイレーンを利用しない手はない。彼女は国家のために役立つのだ」
「犯罪は、犯罪です」
怒りに顔を赤らめた水田を見て、太田はニヤリと笑った。
「私は今日付けで特務大臣、国家公安委員長に就任する。つまり君の任免権は私の掌中にあるということになるな」
「………」
「ともかく、首相の親書を読みたまえ」
染みの浮いた手に握られた親書を、水田は渋面で受け取った。
6
その日の夜、警視庁での拘束を解かれたセイレーンと、彼女に従う教団幹部達は、凱旋将軍さながらに信者の歓喜の声に迎えられて、プリンストンホテルに引きあげた。
だが、すべての信徒が、勝利の凱歌をあげていたわけではない。教団幹部の中でも、生来生真面目な猿渡には、暴徒と化した信者のありさまと、それに続く厳しい警察での取り調べは、よほどこたえたものとみえる。
思いつめた表情の彼が、田代の部屋を訪ねたのは、それから間もなくのことであった。
「手短かに頼むぜ。昨晩は徹夜で取り調べを受けたから、眠くていけない」
洗ったばかりの髪を指ですきながら、田代はもう事件のことなど忘れたように、平静な顔で言った。
「本当に、こんなことをやっていて、いいんでしょうか……」
猿渡の気弱な声を、聞くともなく聞きながら、田代は冷蔵庫からビールの缶をつかみ出した。
「あの母子には気の毒なことをしたが、おかげでいっそう信者が増えたことは間違いない」
そう言いながら二つのグラスに冷えたビールを注ぎ、その一つを猿渡に握らせる。
「聖セイレーン教団に乾杯しよう!」
猿渡の顔色を窺いながら、田代は一息にグラスを空けた。
一方の猿渡はグラスに口をつけようともせず、ふつふつと立ち昇る泡を、浮かぬ顔で見つめている。
「いったい、どうしたというんだ? 最も忠実な使徒のあんたが、何を迷うことがある?」
「取り調べの刑事に、お前達のほうこそ、悪魔じゃないかと言われてしまいましてね……」
猿渡のぼやきを聞いて、田代は苦笑した。
「あんたが『白鳩の啓示を受けた』と自慢げに語って聞かせてくれたのは、つい十日前のことだぜ」
「………」
あの時のことを持ち出されると、猿渡は何も言えなくなってしまう。確かにあのとき、自分は選ばれた者となり、救世主になったような気さえしたのだ。だが今となっては、はたしてあれが本当のことだったのかどうか、疑わしい。
「つまらない良心は、捨てちまうことだな。セイントは、明日もまた退魔の行脚に出るつもりらしい。そんな、か細い神経じゃ、この先勤まらないぜ」
田代は、戒めるような口調で言った。
「今度こそ起訴されますよ」
「されんさ」
自信たっぷりに言うと、田代は手にしたグラスに残りのビールを注ぎ込んだ。
「ついさっき、自由党の太田幹事長から激励の電話を受けたところだ。セイレーンを、悪魔をやっつける国民運動を盛りあげる象徴にするんだとさ。俺達の早期釈放も、どうやら奴の力らしい」
「だからって、田代さんはこんな非人道的なやり方を、何とも思わないんですか? もともとセイントに一番批判的だったのは、田代さんじゃありませんか!」
「ここまで来たら聖セイレーン教団は、俺達がいようといまいと勝手に大きくなっていくだろう。今身を引くのは、得策じゃない」
赤らんだ顔で開き直ったように言う田代を見て、猿渡はただ頭を垂れるばかりであった。
7
セイレーンが釈放されたのと同じ頃、東京インターナショナル・ホスピタルは、血なまぐさい世相とは無縁の平安が保たれていた。
消毒薬の臭いのしみついたリノリウムの床に、包帯交替車の車輪がコトコトと軽快な音をたてていた。
「ねえ知ってる? 四〇四号室の噂」
交替車を押す若い看護婦が、傍のカルテを抱えた看護婦に話しかける。
「四〇四号室って、あのカッコいい男の子がいる病室でしょ?」
「そう。毎日夜中になると、あの病室に、人魂みたいな蒼白い光がふわふわと舞うんですって」
「ヤダ、気色悪い。スタンドの灯りかなにかじゃないの?」
二人はエレベーターの前で足を止め、カルテを抱えた看護婦が下降ボタンを押しながら問いかけた。
「私も最初はそう思ったんだけどね。隣室の患者さんが、人の呻き声やら獣の咆え声がして気味が悪いから、部屋を替えてくれって言ってきてるのよ」
「へえ、ショックだわ。私あの子のファンなのに。でもそういや彼、最近異常にやつれたわねー」
「でしょ? なんか入院してきたときから、いわくありげなのよね、あの二人」
ちょうどそのときエレベータのドアが開き、中島が降りてきた。
看護婦たちは、びっくりして言葉を呑み込んだ。
暗い目を前方に向けたまま、好奇に満ちた視線を投げかける看護婦など意にも介さず、中島はフロアの奥にある事務長室に向かう。
ノックするのを待ちかねていたように、アメリカ人の事務長が姿を現した。
「フィード先生からの電話だ。急ぎたまえ」
緊張気味に言うと、まるで歩哨に立つように、事務長はドアの外に踏みとどまった。
「東京には、また悪魔が出現しはじめていると聞くが、どうなのかね?」
マサチューセッツは夜明け前のはずだが、フィードの声には張りがあった。
「弓子を救い出したとき出現した悪魔が、暴れはじめた可能性はありますが……実際のところは分かりません」
落ちつきのない目で周囲を見まわしながら、中島は沈んだ声で答えた。
だが、昼間とかわりないほど明るい事務長室には夢魔の痕跡もなく、リガニー大統領の肖像画が、堂々たる笑みを浮かべて中島を見降ろしているばかりである。
「……大変だとは思うが、連中の出現については、君にも責任の一端があるということを忘れてはいかんぞ」
電波が七万キロを往復するわずかな沈黙の後で、中島の窮状を知るはずのないフィードのさとすような声がする。
「……戦えということですか?」
中島の声に苛立ちが混じった。
「うむ。先日、大統領の特使が中内首相に会って退魔機関の設立を勧告した。日本政府から正式要請がありしだい、私はそちらに行く予定だが、どうも日本政府の対応が鈍くていかん」
「教授が日本に?」
「大統領から、協力を求められてしまってね。これ以上日本の社会不安が増大すると、米国経済は大きな痛手をこうむることになるからな。だが行ったところで、私一人では心もとない。ぜひとも君の力が必要だ」
フィードは少し早口になると、言葉尻に力をこめた。
「わかりました。ただ……」
「なにかね?」
「弓子の具合がおもわしくありません」
「うむ。院長から聞いておる。それについては私から提案がある」
「――?」
「弓子君を、私の組織するISGで心霊治療を受けさせてみてはどうかね」
「心霊治療?」
「現代医学が不治と宣告した患者を、われわれはもう数百人も完治させておる。弓子君についても可能性はあると思うがね」
フィードは、いかにも自信ありげであった。
「………」
中島の頭は、数秒のうちにめまぐるしく回転した。
新たな戦いに加え、一時的とはいえ弓子とは離れ離れにならなければならない。辛い試練には違いないが、弓子のためにも、また幻覚と幻聴に捉われた現状からの脱却のためにも、他にどのような方法があるとも思えなかった。
「弓子が了解してくれれば、今すぐにでもお願い致します」
中島は、すでに結論を下してしまっていた。
「院長への説明は私にまかせたまえ。下手に心霊治療などと口にしようものなら、その病院を叩き出されかねないからな」
フィードは愉快そうな笑い声をあげた後で、すぐに声をひそめて語りかけた。
「くどいようだが、私が日本に行くまで、君は絶対にそこを出てはいかんぞ。日本の世情は、よほど悪魔には敏感になっておるようだ。もしもということがあるからな」
噛んで含めるように言うと、フィードは通話を切った。
外出禁止令施行時刻には、まだ一時間ほど間があった。
降り続く雨が、眼下の道路を濡らしている。
湿り気を帯びた外気を胸いっぱいに吸い込むと、中島は静かにガラス窓をしめた。
「……君の目を治すためには、これしか方法がないと思うんだ」
心霊治療のための米国行きを提案する中島の前には、ガラスに映る幽鬼のような自分の姿があった。
「……」
応えるかわりに、スリッパが床をこする音がした。
弓子がおぼつかない足どりで、中島のほうに歩み寄ろうとしているのである。
「あぶないじゃないか!」
中島は慌てて駆け寄って手を差し出した。その手を、弓子の暖かい掌が包み込んだ。
「朱実君がいなくなったら、だれもこんなふうにはしてくれないわ」
声が震えていた。
「でも、このままじゃいけないことは分かってるの」
弓子は抑えた声で言うと、包帯に包まれた顔をあげた。
「朱実君の声、このごろとても辛そうなんですもの」
微笑もうとして歪んだ唇を隠すように、弓子はふわりと体の向きを変えて、中島の胸に背中をあずけた。
「―――」
無言のままに甘く、辛い時が過ぎていく。
ややあって、そのほっそりした腕が、唐突にガラス窓の方に伸びた。
「朱美君、飛鳥はこの方角にあるのでしょう?」
「ああ……」
戸惑いがちに頷く中島の手を、弓子は自分の胸に押しあてた。
暖かいふくらみと鼓動を感じて、中島の灰色の頬に赤味がさした。
「私ね、このごろとても怖い夢を見るの。でもその最後に必ずイザナミ神が現れて、飛鳥に来るように言うの……」
「飛鳥に?」
「ええ。もしかしたら、イザナミ神からのメッセージかもしれないわ」
「しかし……」
弓子のうっとりしたような声を聞いていると、中島は自分が危険にさらされることになるかもしれないとは言い出せなかった。
「朱実君、思い出して。伝説では、醜く変貌してしまったイザナミ神は、私達の前に現れたとき、あんなに綺麗だったでしょ。イザナミ神なら、もしかしたら私のこの顔を……」
弓子の言葉は、中島の胸を深々と抉った。
中島は、彼女の容貌が醜く変化しはじめていることを、決して本人には悟られないように細心の注意を払ってきた。しかし、弓子はそのことに気づいていたのだ。
「行ってみよう……飛鳥に」
弓子の唇を掌でおさえると、中島は弓子の耳元に囁くように言った。
抱きあう二人の眼下を流れる神田川の黒い水面に、無数の波紋が生まれては消えていく。
そのはるかな上空に、降りしきる雨をものともせず、三羽の鳩が群れ飛んでいた。
(夢魔どもはよく働いておる。まもなく中島はいぶり出されてくるだろう。)
中島を監視する白鳩が、翼で雨滴をはじきながら羽ばたいた。
(ではいよいよ、セイレーンを差し向けるときが来たか。)
セイレーンを操る白鳩がその横に並ぶ。
(太田はこのままでよいとして、ラルヴァどもはどうしたものか。)
いま一羽が高度をあげて二羽の頭上を舞う。
(捨ておけ、捨ておけ。下々の悪魔どもには勝手に殺戮をやらせておくがよかろう。)
(それがよかろう。)
濡れた翼をくるりと反転させて、一羽が雨中にメビウスの輪を描く。
(ルシファー様のお成りも間近じゃ。)
(楽しみなことよ。)
(ほんに楽しみなことよ。)
降りしきる雨の中に不気味な笑いを残し、三羽はそれぞれ異なった方向へ散っていった。